AKIBABYLON

http://www.oxiare.net/が書籍化するらしい。しかしね、これは大間違いです、こういう方向性は。脱オタクファッションという発想がダメだ。
それは確かにオタクのファッションはヤバいです。この暑いのにアニメイトの前の路上で座り込んでカードゲームとかやってる連中なんかにはカッコだけでも小綺麗にして欲しいという感がないではない。しかし、そうやって全員がユニクロ野郎みたいになった果てに待っているのは民族の死です。
だから今必要なのは脱オタクファッションではなく、ストリートにいるリアルオタクのファッションヒーローを発掘するような作業です。実際に「これは!」とおもうようなファッション感覚の持ち主のオタクはいるんです。この前、私が実際に見たのは秋葉のとらのあななんかの同人売場でしたか、ヴァン・ヘイレンの有名なエレキギターみたいな柄のシャツ(赤と白のランダムなストライプ。ただしそのシャツの白地部分は英字新聞柄だった)に太いケミカルジーンズという、もう今では絶対にどこを探しても手に入らないようなアイテムで身を固めた奴で、見ようによっては凄くカッコいいというか、そこらのヒップホップ野郎なんかは全然太刀打ちできないセンスを醸し出しているのです。こういうイカしたオタファッションリーダーを集めた雑誌なんかの発行が望まれます。
ところで、オタクとファッションと言えば以前から非常に気になっているのは、TVドラマの『電車男』で、内容は見ていないのでどうでもいいが、問題は電車男やその友人の服や小物におけるあのレゲエ風味(首からぶら下げているジャマイカ国旗のポーチやラスタカラーのリストバンド、電車男のサーフィン)は何なのかということです。演出家がたんにレゲエ好きなのかオタクそのままでは暑苦しいのでレゲエっぽい演出で一般受けも考慮に入れたのか?本当のところは知らないが、このオタクとレゲエという組み合わせは極めて重要な文化的示唆に富むものだと私は考えます。
ポストモダニズムとは何か?あの80年代におけるモダニズムの批判(これもまたモダニズムである)ではない、真のポストモダニズムとは何かと考えたときに浮かび上がってくるのはオタクとレゲエ、あるいは日本とジャマイカ、というより秋葉原キングストンという全く対称的な二つの文化的有り様なのです。
何かオタクVSサブカルなんていう図式が盛り上がっているようだが、これはむしろオタクをサブカルに引きずり込もう、つまりはサブカルモダニズムでオタクを捉えようという目論見が透けて見えます。これは動物化論からの後退に他ならない。
だから今重要なのは、オタクとレゲエにおけるポストモダニズムの考察(これはオタクとコギャルにも似ているがコギャルは文化を生まないし、歳とったら「卒業」してしまうし、何より世界的な問題にならない)なのです。
というか、俺がレゲエスタイリーな格好で秋葉に行きたいのに、「『電車男』に影響されちゃった人」と思われるのが嫌で止めているので早く電車男ブームが過ぎて欲しい。

 ニューアソーシエイショニスト

http://blog.livedoor.jp/takapon_ceo/archives/2005-04.html#20050407

流動性が高いといつでも株式を売買できるから(これは重要なことで、ほとんどの銘柄は流動性が低いので好きなときに売買できないケースが多い)、株式の理論的価値が上がることになる。いわば通貨に近くなるわけだ。大幅分割を揶揄する人がいるのは、従来の流動性や浮動株比率が極端に低く、一部の大口投資家の意思だけでマーケットが動かせてしまう、いびつな市場こそ、正しいと思っていたからであろう。

ここで堀江が言っている株式の通貨化というのは、アソーシエイショニズムの重要なポイントになるのではないかと私なんかも思っていました。
やはり、堀江というのはアソーシエイショニストです。ニューアソーシエイショニストです。
今日、東大の生協に行ったら以前は置いてなかった堀江の本が平積みになっていました。生協のようなアカい人達こそが堀江を応援しなければならない。
そして、北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』も局所的に平積みになっていました。内容的にはラストが、「言いたいことも言えないこんな世の中に思想を語る俺ってポイズン」みたいな感じで、そこに「お笑いタレントの性を語りだす中山秀征と俺との違い」みたいなことが考察されていたらもっと良かった。
ところで、東がこの本をネタにブログでおニャン子の話をしていたから、北田もおニャン子論を披露しているのかと思いきや全然それはなかった。
東が言うには「おニャン子クラブという存在は意外と「ベタ」だったと思うのだ」ということだが、そういうことは気分の問題です。だからどうでもよろしい。
重要なのは、おニャン子クラブは状況を変えたということです。つまり日本の芸能を破壊的に変革したという事実です。イカ天とかああいうのもおニャン子無しにはあり得なかった。ようするにおニャン子はパンクだったということです。
シニシズムでもアイロニーでもいいが、そういうのがロマン主義ナショナリズムに向かおうが、それはどうでもいいのです。つまらない問題です。実際つまらないでしょう?電車男とかネット右翼とか、よくそんなつまんねぇもん論じる気になるよなって感じでしょう。
重要なのは、シニシズムアイロニーが現状の破壊的改革に向かう場合であって、それがつまり、パンクってことです。だから、「日本におけるパンクが英国のようにストリートの服屋からではなく、テレビ局のお笑いバラエティから発生した構造」というようなことを考えなくてはならない。
やはり、パンクを知らなければダメですね。私なんかは当然パンクでした。PILのTシャツだって着てました。
そして当時を思い起こせば、フジテレビの目玉マーク。あれは確かおニャン子全盛期に作られたものだと思いますが、あのマークをパンクのアナーキマーク(Aを逆さにしたやつ)と同じような感じで、どこかの壁に落書きしたりしたものでした。つまり、フジテレビがヴィヴィアンみたいな感じだった。
そのフジテレビが今や守旧派の代表のようになってしまったのだから面白いものです。対するライブドア堀江は2ちゃんねる的なものから出てきたパンク的なもの、資本主義のシニシズムがもたらす破壊的改革であって、やっぱり面白い。
しかし、最後には堀江にも代々木ファイナルが待っているのでしょうか?

 『文學界』 絶えざる移動としての批評

柄谷行人浅田彰岡崎乾二郎大澤真幸による柄谷の思想を中心としたシンポジウム。NAMの総括もやっているが、柄谷によると自分が海外にいることが多くメーリングリストに依存しすぎて会員同士が実際に会う機会が少なかったのが失敗の第一原因だという。その通りなのだろう。しかし、言うまでもなくML等のコンピュータ通信ネットワークが悪いわけではなく、柄谷がネットのもたらす環境の変化を考えられなかったのが原因である。
関心はあるが詳細のよく分からない組織に加入する場合、その組織の情報をできるだけ多く知りたいとは誰もが思うことであるが、かつては直接その組織を尋ねるか、手紙や電話、ファックスで問い合わせるしか方法がなかった。しかし、この場合いずれも組織を代表するような固定的な場所が必要となる。また、固定的な場所の確保は組織の信用にも繋がる。したがって、どうしても実際の不動産を借りるなどして場所を確保する必要があったのだが、今ではネット上にウェブサイトを立ち上げればその必要はなくなるのだ。つまりウェブサイトを組織のオープンな場所として機能させれば、必要な情報や信用を高めるような情報を提供でき、高い金を出して事務所を借りる必要はない。また、ネットを使えば緻密な連絡や外部への告知が可能になり、集会等もその都度場所を借りればいいだけの話である。公的機関でタダで借りるのが良いだろうがマクドナルドのような場所であっても構わない。椅子が堅くて長時間いられなというならば座布団を持ち込めばよい。BGMがうるさければ音量を下げるよう要求すればよい。それもまた一つの消費者の運動であって、環境型権力を論じるのはそれが変えられないことを確認するためではなく変えるためである。
しかしながらNAMでは各地に事務所を借りていたようで、できるだけ安く抑えたとしても毎月固定的に出ていく賃料の支払いが、年会費一万円という「一般の人」を集めるには高額な金額を要求してしまったのではないか?柄谷は失敗の第二原因としてNAMが「柄谷ファンクラブ」化してしまったことを嘆いていたが、年会費一万円という金額では最初から柄谷に強い関心のある人間しか入らないだろうし、金を払ったのだから言いたいことを言わせろという人が出てきたとしても不思議ではない。そもそも不動産というのは国家と資本の結びつきの結節点のようなもので、そのようなものに少しでも金を出すこと自体、NAMの運動を考えればバカげているのである。
いずれにせよNAMの失敗の原因はML依存それ自体ではなく、ネットは人と会わずに済ますための道具ではなく人に実際に会うための道具であって、ウェブサイトを組織の拠点として活用すれば不動産を所有したり借りたりしなくても人と会う機会を増やせると言う認識が欠けていたために、ネットの使い方を間違ったためであろう。だが、これはやむを得ないとも言える。いくら思想的に斬新なことを考えていたとしても、経験がなければ実際の行動において古い慣習に囚われてしまうものなのだ。

 Utada 『EXODUS』

Utadaの『EXODUS』日本盤には歌詞の訳と訳者との対談が付いてくる。雑誌のインタビューやTVではどうでもいいようなことしかしゃべらない宇多田だが、この対談ではわりと突っ込んだ話をしている。
その話の中心は、「何でヒッキーはここまでエッチになっちゃったのか」に対する言い訳というか説明なのだが、私がhttp://d.hatena.ne.jp/KGV/20040402で解釈したように、日本語でも性的な要素を過剰に包み込んだ内容の歌詞を歌っていたのであり、それが宇多田の本質と言ってもいいのだ。
つまり、全世界を性的な対象にしてしまうという巫女的な存在吉本隆明共同幻想論』)が宇多田ヒカルであり、今回ついに「くすんだブロンドのテキサス男」に「極東の人たちがどうやって楽しむのか教えて」あげる事態にまで至ったのだが、このborn-again Christianであるテキサス男が、"So what's it like to start life all over?"と尋ねられ、"Amen, I feel like I've been rediscovering the tomb of Tutankhamen"と答えるのを聞けば、誰もが第43代アメリカ合衆国大統領を思い浮かべないわけにはいかない。
"Push it up, pusu it down"が繰り返される"workout"の最中、"Baby, don't put me down"と叫ぶFar Eastの女が最後に"If you want, you can come / Come get it, get it / If you don't you may really regret it"と誘惑する『THE WORKOUT』について、本人は対談でそれがブッシュを想定して書いたことを否定しているのだが、明確な意図がなくともアメリカ合衆国と激しく性交してしまうような歌詞が今このような状況下で書かれてしまうことが、この歌手を特別な存在にしている。
しかし一方で、本人も言うように「歌詞とか音楽って本来はそういうもの」なのである。特に歌は性的なものである。
なぜならば、声は性器に他ならないからだ。
ただし、"She's got a new microphone"と歌われたとき、彼女が歌手ならば、"microphone"は彼女の中に受け入れられるものではない。
"You make me want to be a man"と歌う彼女のファルス、それが"microphone"なのである。

 安室奈美恵 『ALL FOR YOU』

HEYで安室奈美恵の『ALL FOR YOU』を聴いた。HIPHOP/R&B系の前3曲とは変わって普通のバラード曲で私としては残念だが、こういう曲が好きという人も少なからずいるので仕方ない。
別に悪い曲ではないのだが、今回のような個性を感じないメロディの曲を聴くとやはりかつての小室哲哉は偉大だったと思わざるをえない。小室の場合、R&B系の曲は全くダメだったので今の安室から手を引いたのは正解だと思うが、メロディを聴かせる曲では耳に残る個性があった。
小室の本当に偉いところは、自分の恋人であった華原朋美にはどうでもいいような曲をあてがう一方、華原を大きく上回る歌手としての才能を持つ安室には、彼の能力の全てを注ぎ込んだ曲を提供していたという点にある。
この点だけを挙げても、私は小室を本物の芸術家と認めるのである。

 宇多田ヒカル 『誰かの願いが叶うころ』

この曲については、まず第一にメロディーに大きな力があることを言わなければならない。オクターブを上下するような激しい動きのメロディーラインが、細部を切断しつつ全体を繋ぎ合わせるという不思議な構造を可能にしている。伴奏のピアノがこの繊細なメロディとややぶつかっているという問題があるにせよ、作曲家としての宇多田の才能を十分に感じさせる曲ではあるのだが、しかし、最も注目すべきなのはやはり歌詞である。

「今さえあればいい」と言ったけど そうじゃなかった

「いまここ」だけを求めることへの明確な否定。
http://d.hatena.ne.jp/KGV/20040214で述べたように、「いまここ」の全面的な肯定がELT=持田香織に代表されるようなJ-POPの最終的な結論であるとしたら、宇多田はそれを否定するのだが、この両者の違いは思想的な意味で本質的な問題を孕んでいる。それを考えるには『誰かの願いがかなうころ』と、この曲を作詞するときに宇多田が明らかに意識したと思われる持田の『ファンダメンタル・ラブ』との違いを考えなければならない。
その違いのポイントは幸福主義(幸福主義は個人の幸福を追求するものであり個人主義と同じである)をどう考えるかにあると言え、持田は明確に幸福主義の立場を取る。それは次のようなものだ。

愛を失くしてる人達がいる 涙は枯れ果てた...
イメージなんて そんなモン
上っ面なだけで... ネぇ、何がわかるのぉ?

と、形而上的な愛を否定することで個人のフィジカルな経験に基づく愛の優位性を示し、

「清く、正しく、美しく」と教室に貼られていた
じゃあ おたずねしますけど
社会は「いつだって」そぉだったと言える?

と問いかけ、学校に代表されるような共同体が強いる習慣的な道徳が社会を「いつだって」幸福なものにするとは限らないと伝える。そして、

今日もまた 背中を丸め うつむいて歩く人の群れ
小っちゃな幸せさえも 気付けすにまた見逃しちゃうわぁー!!

ここでも個人が感じる幸福の優位性を訴えながら、

そうよ だっていろんな愛は
今日もどっかで生まれている
それぞれの愛がこの地球を救う

と、個人が「それぞれの愛」を幸福として追求すれば、それが全面化することで世界全体の愛へと繋がるという原理が導かれる。このイギリス由来の幸福主義は資本主義を正当化するイデオロギーでもあり(個人がそれぞれの利益を追求すれば、やがては世界全体の利益となる)、自由主義の完全な正当化を支えるものでもある。
それでは、宇多田の場合はどうであろうか。

あなたの幸せ願うほど わがまま増えてくよ
それでもあなたを引き止めたい いつだってそう

「あなたの幸せ」を目的とするほど、私の幸せの手段として「あなたを引き止め」てしまう。すなわち、他者を目的とすると自己の手段となってしまう。
そして反対に、

自分の幸せ願うこと わがまっまではないでしょ
それならあなたを抱き寄せたい できるだけぎゅっと

と、「自分の幸せ」を目的としても、その手段として「あなたを抱き寄せ」てしまう。つまり、自己を目的としても他者が手段となってしまうことを訴える。
したがって、いずれにせよ他者を手段にしてしまうのならば、自分(の幸せ)だけを目的にすればよいという幸福主義に帰結するのが多くの場合なのだが、この曲で宇多田は明らかに異なる方向を目指している。それは次の一節に示される。

誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ
みんなの願いは同時には叶わない

個々の幸福が全面化する、つまり一般化することで世界全体の幸福に繋がるという幸福主義は、一般化された幸福を受け入れられない「あの子」を除外することで成り立っている。カントの言葉を借りれば、「それだから幸福の原理は、なるほど一般的な規則を与えることはできるが、しかし普遍的規則を与えることはできない、...」ということになる。
それでは、一般化された幸福を受け入れられない「あの子」とは誰を指すのか?ハーバーマスは普遍性を共同主観性(公共性)によって基礎づけようとしたが、そのような共同主観性(公共性)から外れる者、例えば精神障害者やカルト的テロリストのような存在を考えてもよい。しかし、重要なのは柄谷行人が言うように「死者」「まだ生まれていない未来の人間」である。
したがって、幸福主義は「死者」「まだ生まれていない未来の人間」を無視することによってしか成立しない。だからこそ「いまここ」の全面的肯定と歴史の否定が生じる。

この地球は グルグルまわってく
必要のないモノまで付けて...

このように歌われる『ファンダメンタル・ラブ』に対して、『誰かの願いがかなうころ』は次のような歌詞で終わる。

誰かの願いがかなうころ あの子が泣いてるよ
みんなの願いは同時には叶わない
小さな地球が回るほど 優しさが身に付くよ
もう一度 あなたを抱き締めたい
できるだけそっと

「地球が回る」つまり、「死者」と「まだ生まれていない未来の人間」を内包する過去と未来の歴史の流れの中でしか「優しさ」は身に付かない。
「みんなの願いは同時には叶わない」すなわち、いまここにおける普遍的幸福はあり得ないが、「自分の幸せ」と「あなたの幸せ」を同時に願うこと、カント的に言い換えれば「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱うこと」は、その同時性を歴史の中に見い出すことによってのみ可能になる。
そして、このような過去と未来の歴史の流れの中でだけ愛は普遍的なものになる。
それは多分、「できるだけそっと」あなたを抱き締めるるような「優しさ」としか言えないようなものだ。

 東京都現代美術館

東京都現代美術館に、「日本漫画映画の全貌」という日本のアニメーションを草創期から振り返った展覧会を見に行き、同時開催していたフランス周辺の印象派を適当に集めた展覧会、日本と世界の現代美術を適当に集めた常設展、「トーキョーワンダーウォール」という公募展もついでに見た。
「日本漫画映画の全貌」では政岡憲三の『すて猫トラちゃん』が見たかったのだが、最後の2分間程度を繰り返し流しているだけだった。別の日に正式な上映会を行っていたようだが、東京都現代美術館のサイトにはそういう細かい情報が出ていないので知らなかったのである。困ったことだ。
しかし、部分的であってもオペレッタ形式として作られている『すて猫トラちゃん』の躍動感はよく分かり、絵を動かす喜びや興奮が伝わってくる作品だった。このような政岡憲三の漫画映画は、戦後の日本の低予算で作られたアニメ(いわゆるリミテッドアニメ)とは明確に違う方向性であり、ディズニー的な指向を持って作られていたと考えてよいだろう。とはいえ、キャラクターの顔はいかにも日本的であり、そのギャップが非常に面白かった。
他にも年代順に日本のアニメが紹介されていたのだが、スタジオジブリの協力による戦後の作品の展示は当然ながら宮崎駿と彼が影響を受けたと思われる作品を中心としたセレクトで、「日本漫画映画の全貌」などとはとても言えるものではなく、夏休みの子供集めのための展覧会といったところだった。
フランス周辺の印象派を適当に集めた展覧会ではルノワールが6点ほどあった。1885年の作品『化粧する少女』は印象派独特のモワッとしたタッチの中に明確なラインが入っていてなかなか良いと思うのだが、1900年以降の3点はモワッとしているだけで全く面白みに欠ける。
一方で、10点ほどあったモネは『睡蓮』以降のモワッとした感じの方が、それ以前の作品よりも良いと思う。モネと言えば浮世絵の収集だが、その影響は形態やタッチよりも色の感覚にあるのではないか。特に『睡蓮』のエメラルドグリーンの色遣いは他の印象派の作家と比べてかなり特異なものであり、歌川広重の影響を感じさせた。
ゴッホも一点だけあったが(『斜面の木々』)、やはり見ていると異常な感じがする絵だ。
常設展の「日本の美術、世界の美術−この50年の歩み」というのは美術館が所有している作品を中心に並べているのだろうが、まとめてみるとそれなりに面白いものだ。開設当時、高額な購入代金で話題になったリキテンスタインの『ヘア・リボンの少女』は現物を初めて見たのだが、これはやはり独自の説得力を感じさせるものであった。近くにあった同じポップアート系のローゼンクイストよりは断然良い作品であって、リヒターの『エリザベート』よりも見ている者を揺さぶる力がある。リヒターは現物を見ると意外につまらない。
ちなみにウォーホルは一点もなかったのだが、70年代までの作品ならリキテンスタインよりはいいと思う。しかし、リキテンスタインの方が徹底していたことは確かだ。
日本の現代美術も結構展示されていたのだが、これは!と思うのは今井俊満草間彌生ぐらいで、他のは当時はそれなりのインパクトを与えたとしても、今見るとどうもカールスモーキー石井感覚(カル石感覚)」というか、いかにも現代美術という感が拭えない。その中で荒川修作横尾忠則だけは、現代美術的なものに対する抵抗を対称的とも言える方法で提示していたと思うが、展示されていた作品について言えば、今では両者ともグラフィックの手法として吸収されてしまったのではないだろうか。
サム・フランシスの作品がいくつかあったが、最も日本的なものを感じさせるのが彼の絵だった。逆にそこから、この場では不当にも展示されていなかった岡崎乾二郎の絵にある日本的なものへの抵抗を想起させた。
公募展である「トーキョーワンダーウォール」は女性の作家の方が面白い作品が多いようだ。少なくとも入賞作についてはそういえる。絵的にどうだというよりもアイディアとして優れている。
一昔前のこの手の公募展では、前衛民芸私小説路線のようなカル石感覚で溢れかえっていたものだが、最近はそういうものも減ってきているようで良い傾向だと思う。