宇多田ヒカル 『誰かの願いが叶うころ』

この曲については、まず第一にメロディーに大きな力があることを言わなければならない。オクターブを上下するような激しい動きのメロディーラインが、細部を切断しつつ全体を繋ぎ合わせるという不思議な構造を可能にしている。伴奏のピアノがこの繊細なメロディとややぶつかっているという問題があるにせよ、作曲家としての宇多田の才能を十分に感じさせる曲ではあるのだが、しかし、最も注目すべきなのはやはり歌詞である。

「今さえあればいい」と言ったけど そうじゃなかった

「いまここ」だけを求めることへの明確な否定。
http://d.hatena.ne.jp/KGV/20040214で述べたように、「いまここ」の全面的な肯定がELT=持田香織に代表されるようなJ-POPの最終的な結論であるとしたら、宇多田はそれを否定するのだが、この両者の違いは思想的な意味で本質的な問題を孕んでいる。それを考えるには『誰かの願いがかなうころ』と、この曲を作詞するときに宇多田が明らかに意識したと思われる持田の『ファンダメンタル・ラブ』との違いを考えなければならない。
その違いのポイントは幸福主義(幸福主義は個人の幸福を追求するものであり個人主義と同じである)をどう考えるかにあると言え、持田は明確に幸福主義の立場を取る。それは次のようなものだ。

愛を失くしてる人達がいる 涙は枯れ果てた...
イメージなんて そんなモン
上っ面なだけで... ネぇ、何がわかるのぉ?

と、形而上的な愛を否定することで個人のフィジカルな経験に基づく愛の優位性を示し、

「清く、正しく、美しく」と教室に貼られていた
じゃあ おたずねしますけど
社会は「いつだって」そぉだったと言える?

と問いかけ、学校に代表されるような共同体が強いる習慣的な道徳が社会を「いつだって」幸福なものにするとは限らないと伝える。そして、

今日もまた 背中を丸め うつむいて歩く人の群れ
小っちゃな幸せさえも 気付けすにまた見逃しちゃうわぁー!!

ここでも個人が感じる幸福の優位性を訴えながら、

そうよ だっていろんな愛は
今日もどっかで生まれている
それぞれの愛がこの地球を救う

と、個人が「それぞれの愛」を幸福として追求すれば、それが全面化することで世界全体の愛へと繋がるという原理が導かれる。このイギリス由来の幸福主義は資本主義を正当化するイデオロギーでもあり(個人がそれぞれの利益を追求すれば、やがては世界全体の利益となる)、自由主義の完全な正当化を支えるものでもある。
それでは、宇多田の場合はどうであろうか。

あなたの幸せ願うほど わがまま増えてくよ
それでもあなたを引き止めたい いつだってそう

「あなたの幸せ」を目的とするほど、私の幸せの手段として「あなたを引き止め」てしまう。すなわち、他者を目的とすると自己の手段となってしまう。
そして反対に、

自分の幸せ願うこと わがまっまではないでしょ
それならあなたを抱き寄せたい できるだけぎゅっと

と、「自分の幸せ」を目的としても、その手段として「あなたを抱き寄せ」てしまう。つまり、自己を目的としても他者が手段となってしまうことを訴える。
したがって、いずれにせよ他者を手段にしてしまうのならば、自分(の幸せ)だけを目的にすればよいという幸福主義に帰結するのが多くの場合なのだが、この曲で宇多田は明らかに異なる方向を目指している。それは次の一節に示される。

誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ
みんなの願いは同時には叶わない

個々の幸福が全面化する、つまり一般化することで世界全体の幸福に繋がるという幸福主義は、一般化された幸福を受け入れられない「あの子」を除外することで成り立っている。カントの言葉を借りれば、「それだから幸福の原理は、なるほど一般的な規則を与えることはできるが、しかし普遍的規則を与えることはできない、...」ということになる。
それでは、一般化された幸福を受け入れられない「あの子」とは誰を指すのか?ハーバーマスは普遍性を共同主観性(公共性)によって基礎づけようとしたが、そのような共同主観性(公共性)から外れる者、例えば精神障害者やカルト的テロリストのような存在を考えてもよい。しかし、重要なのは柄谷行人が言うように「死者」「まだ生まれていない未来の人間」である。
したがって、幸福主義は「死者」「まだ生まれていない未来の人間」を無視することによってしか成立しない。だからこそ「いまここ」の全面的肯定と歴史の否定が生じる。

この地球は グルグルまわってく
必要のないモノまで付けて...

このように歌われる『ファンダメンタル・ラブ』に対して、『誰かの願いがかなうころ』は次のような歌詞で終わる。

誰かの願いがかなうころ あの子が泣いてるよ
みんなの願いは同時には叶わない
小さな地球が回るほど 優しさが身に付くよ
もう一度 あなたを抱き締めたい
できるだけそっと

「地球が回る」つまり、「死者」と「まだ生まれていない未来の人間」を内包する過去と未来の歴史の流れの中でしか「優しさ」は身に付かない。
「みんなの願いは同時には叶わない」すなわち、いまここにおける普遍的幸福はあり得ないが、「自分の幸せ」と「あなたの幸せ」を同時に願うこと、カント的に言い換えれば「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱うこと」は、その同時性を歴史の中に見い出すことによってのみ可能になる。
そして、このような過去と未来の歴史の流れの中でだけ愛は普遍的なものになる。
それは多分、「できるだけそっと」あなたを抱き締めるるような「優しさ」としか言えないようなものだ。