『現代思想』 柄谷行人インタビュー

上部構造というかわりに、いろんな言い方がありますね。「共同幻想」とか「想像の共同体」とか「表象」とか。一般に、上部構造を重視する人たちはかつての経済的決定論に反撥したからでしょう。しかし、そういう見方は「経済的下部構造」が何か実体的なものであるかのように考えることです。ところが、資本主義的経済というのは、貨幣と信用からなる世界であって、それ自体宗教的な世界なのです。

現代思想』8月号のインタビューで柄谷は、98年以降の自らの理論的展開の前提を上記のように語り、そこから資本と国家、さらにNAMの運動を経てネーションと宗教の構造的把握について考えるようになったと言う。
ところで、上記の引用に「共同幻想」という言葉が出てくるが、これが吉本隆明の『共同幻想論』を意識していることは言うまでもない。しかし、吉本は「「経済的下部構造」が何か実体的なものであるかのように考え」ていたのだろうか?

そうすると、お前の考えは非常にヘーゲル的ではないかという批判があると思います。しかし僕には前提がある。そういう幻想領域を扱うときには、幻想領域を幻想領域の内部構造として扱う場合には、下部構造、経済的な諸範疇というものは大体しりぞけることができるんだ、そういう前提があるんです。しりぞけるということは、無視するということではないんです。ある程度までしりぞけることができる。しりぞけますと、ある一つの反映とか模写じゃなくて、ある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところまでしりぞけることができるという前提があるんです。

以上の『共同幻想論』の序にある吉本のインタビューを読むと、彼の場合も資本主義的経済における「それ自体宗教的な世界」、すなわち「ある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところ」を把握するために、いったん下部構造をしりぞけ上部構造における「幻想領域」を扱う必要があったのだということが分かる。
つまり、80年代以降の柄谷は吉本に対して常に批判的であるのだが、ネーションや宗教が様々な領域で機能しているのを注意深く見る必要があると語る今の柄谷は、『共同幻想論』を書いた吉本と実は同じ問題を扱っているのではないだろうか?
私は高校生の頃から今にいたるまで柄谷行人の思想的影響を強く受け、今でも彼は偉大であると確信しているが、その一方で柄谷や浅田彰が小馬鹿にしていた吉本隆明については彼らの影響により批判的に考えていた。特に知識人の独善を退け大衆の優位性を強調する吉本の一貫した態度には強い反撥を覚えたものだが、NAMの運動における柄谷本人を含めた知識人のダメさを見てからというもの、吉本の知識人批判にはそれなりの必要性があったのだと思わざるを得ない。このあたりことは全共闘世代には自明のことなのかもしれないが、知識人が行う政治運動のバカバカしさというものをNAMでリアルタイムで見て実感として分かった。
吉本の思想家としてのこのような役割や、上で述べた最近の柄谷との問題把握の共通性を考え合わせると、吉本隆明という人はやはり偉大な思想家であると最近になって思い始めた。
ここでNAMの運動のダメさというのを一つだけ挙げると、『現代思想』のインタビューで柄谷は、マルクス資本論において税金や国家の問題が省かれているのは何故なのかについてこれから考えたいと語っているが、マルクスがどのように考えていようと、国家と資本に構造的に対抗しようとするならば真っ先に取り組まなければならないのが税金の問題のはずである。源泉徴収制度のように国家と資本の結合による歪んだ税制がサラリーマンの政治意識にまで影響を及ぼしている日本においては、税金制度について考えることは極めて重要なはずだ。しかし、そういうことがスッポリ抜け落ちて夢想的な地域通貨とその内部抗争に熱中していたのだから、知識人の勉強会の域を出ることができなかったのは当然なのである。

 嶽本野ばら(原作) 中島哲也(監督・脚本) 『下妻物語』

この映画はあらゆる意味で面白かったが、単純に笑えて楽しめるという点だけをとっても庵野秀明の『キューティーハニー』など全く比較にならないくらい良くできている。どんなにバカバカしい作品でも作り手が真剣になっていなければ見る側は楽しめないが、『キューティーハニー』の場合、「娯楽映画なんてこんなもの」という監督の意識が透けて見えてしまう。これでは面白い作品など作れるわけがないのだ。
下妻物語』の監督の中島哲也はCMをやっていた監督だけあって、クリアな映像がこの映画に合っている。一方で、CM的なギャグの演出は少しやり過ぎの感もあるが、テンポ良く流れているので全体からすると気にならない。
役者としては、ヤンキーのイチゴ役の土屋アンナが素晴らしく、良く通る声が映画全体を引き締めるぐらいの役割を果たしていた。また、イチゴが尾崎豊のファンという設定で歌も歌うのだが、尾崎へのトリビュートとしてこれほど相応しい作品はないと思う。主演の桃子役の深田恭子も良かったが、やはり二人の組み合わせがこの映画を魅力的な作品にしている。
だが、『下妻物語』は単なる優れた娯楽作品ではない。嶽本野ばらの原作を読めば分かるのだが、実は思想的な枠組みがしっかりと組まれている作品であって、映画においてもそれが映像として生かされている。
その「思想的な枠組み」とは、一言で言えばアナーキズムである。
嶽本野ばらは、乙女的なものやロリータファッションへの深い傾倒で有名な作家だが、初期のVivienne Westwoodを考えれば分かるように、ロリータ的なものの源流にはセックス・ピストルズの、というよりもマルコム・マクラーレンアナーキズムが存在していた。したがって、自らをマルコムに重ねているようにも見える嶽本が、アナーキズムを小説の思想的背景に置いたとしても不思議ではない。
実際に、『下妻物語』の原作においては桃子が明確に「私はロココ主義だから。ロココは真のアナーキーなのよ」と宣言している。しかし重要なことは、この作品が全体を通してアナーキズムの本質を明らかにしているという点にある。
アナーキズムの本質を述べることは難しい。無政府主義と訳されるこの思想は、確かに政府すなわち国家(ステート)を否定するのであるが、この否定が直ちにアナーキズムに直結するわけではなく、次のいずれかの方向にいくことが多い。ナショナリズム資本主義である。前者は国家主義と訳されるが中央政府により組織化された国家ではない血と大地で結ばれた運命共同体としての国家であり、後者は国家に束縛されない経済運動を目指す自由主義である。したがってアナーキズムを描く際には、この二つと国家(ステート)がどのような関係にあるのかを示すことが鍵になる。『下妻物語』で注目すべき点もまさにそこにあるのだ。
まず資本主義についてだが、物語の前半で、桃子の父親が作るベルサーチの偽物をブランドのロゴさえ入っていればそれが本物であるかはどうでもいいとばかりに喜々として欲しがる尼崎の人々やヤンキーのイチゴ、すなわち国家(政府)が本物と保証する資本の価値を認めない人々を描くことによって、ファッションブランドに代表されるグローバルな資本主義経済が国家(政府)の保護のもとに成り立っていることを逆説的に示している(父親はブランドの偽造により逮捕されそうになり桃子と下妻へ逃亡することになる)。この描写は映画でも非常に上手く再現されている。
そして、資本主義が下妻のような郊外の生活全般に支配的影響を及ぼす象徴としてジャスコの存在が大きくクローズアップされるのだが、重要なのはグローバル経済がもたらした商品で満たされたジャスコを「何でもある」と自慢げに語るイチゴと、代官山の小さなロリータ系ブランドショップを崇拝し自らの手作業による刺繍で自分の欲しいものを作る桃子との対比であり、やがては桃子の刺繍した特攻服に感激するイチゴの描写を通して、規格化された商品のみが供給される資本主義では満たされない人間を描くことに成功している。
次に、ナショナリズムについてだが、これはクライマックスの対決シーンに凝縮されていると言ってよい。茨城のレディース(女性の暴走族)を組織化して統一するというチームのリーダーに対し、今まで通り小さなチームで自由に走っているだけでいいじゃないかと主張するイチゴは、まさに国家(ステート)に組織化されることを拒むナショナリストに他ならない。通常、近代国家においてはそれをネーション−ステートと呼ぶように、ネーションとステートは一体となったものなのだがステートが誕生または崩壊する際においてはネーションと対立するのである。
しかし、イチゴのナショナリズムは、「ダチになることを拒否してた」桃子について語り出したとたん、「人は最後は一人なんだよ」とイチゴ自ら否定してしまう。そして、チームを抜けることを宣言したイチゴは他の暴走族全員と対決することになるのだが、そこに桃子が助けに入る。イチゴのために血で汚れた顔と大地の泥で汚れた服で戦う桃子の姿は、二人の共同体的関係を一瞬思わせるのだが、ラストの桃子の言葉で共同体の根拠となるべき関係が否定されてしまう。

イチゴ、大好きなイチゴ、私も貴方から一杯、いろんなものを貸して貰ったよ。でも返さないよ。一欠片も。

共同体の贈与とお返しの交換関係は、ヤンキーの立場からそれを求めるイチゴに対し、桃子が常に拒否してきた他者との関係であり、原作においては親へのお返しも否定されている。
イチゴと桃子のように贈与とお返しの交換関係を一切拒否してもなお結ばれる関係こそが、資本主義にもナショナリズムにも陥らないアナーキズムの本質であり、これを主人公の強力なメッセージにしたことで、嶽本野ばらは『下妻物語』を高度な政治文学としても読める作品にしたと言ってよいだろう。

 松田聖子 『MUSIC FAIR21』

MUSIC FAIR21松田聖子が自らのヒット曲をメドレーで歌っていた。
彼女の絶頂期がデビューの80年から最初の結婚の85年の6年間であることは誰もが認めるであろうが、80年代の前半にシングルを毎回1位に送り込む大ヒット歌手だった松田聖子の存在は日本のその後の全文化領域に極めて重要な意味を持つはずだ。それはJ-POP的90年代を用意したというよりも、70年代以前の歌謡曲を高度なレベルで完成させたことで、それが内包する文化を終わらせたということである(それが可能であったのは聖子本人だけではなく松本隆細野晴臣らのはっぴいえんどのメンバー、松任谷由実呉田軽穂)といった日本語のロック・ポップスを作り上げてきた作家陣の存在が大きいことは言うまでもない)。
したがって、聖子的アイドルは彼女の結婚と同時期に小泉今日子おニャン子クラブ、つまりは秋元康的なものによって急速にパロディ化され解体されていく。これがJ-POP的90年代の前提になったと考えてよいだろう。
つまり、松田聖子とは一つの時代を完成させることによって終わらせるタイプの存在であるのだが、これと同様に90年代のJ-POP、すなわち「アーティストによる自己表現のポップス」をその完成によって終焉させたのが宇多田ヒカルである。ただし、宇多田の場合、完成させるだけではなく秋元康的な解体までも一人二役で行っていると考えられ、その意味で彼女の歌詞におけるJ-POPに対する批判的意図はよく読まれる必要がある。
そして松田聖子について、これだけは言っておきたいのだが彼女が本当に偉大であるのは、90年代以降かなり無謀な全米デビューに二度も挑戦し、90年と96年に世界発売のアルバムを出したというアーティストとしての活動があるからであって、完全に国内向けのアイドルであった彼女がこのような転向を果たしたという意味は大きい。
おそらく彼女は80年代後半の時代のフェーズが変わる中で、アイドルではなくアーティストとして認められたいという強い意志が芽生えたのではないだろうか。そして聖子とは全く状況が異なるが、尾崎豊という人も「若者の代弁者」的存在から一人のアーティストとして認められたいという気持ちが非常に強かったと思われる。なぜ私がそのように考えるのかと言えば、この二人は元々非常に高い音楽的才能を持っていたからである。歌が上手いというのはそういうことだ。にもかかわらず正当な音楽的評価よりもアイドルやロッカーとしての存在のみがクローズアップされたことが、尾崎の場合、不幸な結末を招いたのではないだろうか。ちなみにSEIKOが出した2枚目の世界発売アルバム『WAS IT THE FUTURE』は結構良くできている。
それにしても、デビューから24年経ったというのに当時の曲を当時のようなフリフリの衣装で歌える松田聖子というのは本当に凄い。生きる希望が沸いてくる。これがポップでなくて一体何がポップなのか?
松田聖子こそが本当の意味でのJapanese-POPに他ならない。

 東京国立博物館 『空海と高野山』

東京国立博物館空海入唐1200年を記念した展覧会に行ってきたのだが、平日の遅い時間であるにもかかわらず混雑していた。普段現地にまで行っても目にすることのできない当時から伝わる真言密教の仏具を見ることができるとあって関心のある人が多いのだろう。
様々な法具から仏像、経典、そして曼荼羅をはじめとする図像が江戸時代にいたるまで展示されていたが、それらを見ていると、空海が活躍した1200年前こそが日本の絶頂期であり、その勢いで今日までやってきたのではないだろうかと思えてくるような力を感じさせるものが多くあった。
その中でも圧倒的な迫力だったのが写真の両界曼荼羅図であり、約4メートル四方の胎蔵界曼荼羅(右)と金剛界曼荼羅(左)の二幅が並ぶ様は、そこに描かれた緻密な図像に全世界を体系化したような超越性を当時の人々が一目見て感じたであろうことを想像させる。
長年の燻染で今はだいぶ退色してしまったようだが、元々は鮮やかな赤をベースに描かれたこの曼荼羅はその大きさや緻密さに加えて、胎蔵界金剛界と構成の違う二幅が並べられたことで世界には二つの原理があるということを強力に印象づける。これが空海の師である恵果の、『大日経』と『金剛頂経』の両方の系統を統合を目指したインドにはない密教の特徴であり、空海においても二つの原理をベースに真言密教を体系化させたと思われる。
なお、この曼荼羅空海が唐から持ち帰ったものではなく平安時代に作られた複写であり、オリジナルに忠実なもの(現図曼荼羅)としては現存する最古のものらしい。平清盛がみずからの血を混ぜて彩色したという言い伝えがあり「血曼荼羅」の異名を持つそうだ。

   

 Winny問題の本質

福田和也が言うように、ハイデガーが20世紀的問題を考える際に複製芸術の問題が大きかったわけで、複製技術によってシミュラクル商品が回っている中で固有性とか本来性みたいなものをどう獲得するかという問題が、存在者と存在の差異みたいなことに関わっていくのだろう。
しかし、ハイデガーの存命中は複製技術といってもアナログレコードや書籍の時代、すなわち不完全な複製技術の時代だったので、この中途半端な複製可能性がかろうじて問題を覆い隠していたわけだ。
ところが、80年代後半以降のソフトのデジタル化とネットワーク技術によって、完全な複製技術及びその流通が可能になり、無限の複製可能性が確立すると固有の価値としてソフトに値段を付けるのは困難になってくる。無限に複製可能な商品の値段は限りなくゼロ近づくということだ。もちろんオリジナルの制作費は常に存在しているのだが、無限の複製可能性がその固有性を消去してしまうのだ。
そこでこれでは困るというわけで、「新技術」によって無理やり不完全な複製可能性を復活させようというのがCCCDなり何なりであって、こんなものをやるくらいならCDなど止めてアナログレコードに戻して、レーザー針プレイヤーを普及させた方がマシではないかと思うが、技術がある限り結局は複製されてしまうわけで、そういうことをやっていると本当にインターネット禁止というバカげた事態に成りかねない。まあ、現実的には法律を変えてでも「違法コピー」を摘発する方向で対処していくのであろう。
しかし、ここでよく考えなければならないのはやはりオリジナルの問題なのだが、それはオリジナル作品についてというよりも、究極のオリジナルであるコンテンツ製作者としての人間と経済システムとの関わりについてだ。
どういうことかと言うと、クローン技術により人間の複製不可能性も大分怪しくなってきているとはいえ、今のところは複製不可能な人間に値段を付けることができれば、複製可能なコンテンツに無理矢理値段を付ける今の流通システムにとって代わることができるのではないか?という考えの転換である。
Winny事件で逮捕された47氏の考えていた「デジタル証券によるコンテンツ流通システム」の思想的な意味はそこにあるのではないか。
47氏のこのシステムの説明はメモ的なものであってよく分からない点もあるが、私の解釈では、原理的には株式会社法人と証券市場の仕組みと同じもの、すなわち、会社がヒトとモノの所有関係に法人というヒトでもなければモノでもない中間的存在を導入したのと同様、コンテンツ製作者とコンテンツ製作の関係に法人的存在を導入し、株式会社同様に証券化によりその分割所有を可能にし交換可能性を確立させ、値段の付けられなくなったコンテンツそのものの市場にとって換えるというシステムであると考えられる。つまり、本来分割もできなければ交換もできないはずのコンテンツ製作者としての人間を法人化して流通させようというわけだ。
したがって、このシステムは株式会社と株式市場の二つの面、すなわち事業の為の資金調達とキャピタルゲインの獲得という面を併せ持ち、前者は実用的なソフト製作に、後者は芸術作品全般の価値付けに適応するのではないだろうか。
もちろん、現在の流通を根底から覆すこのようなシステムが直ちに普及するとは現実的には考えられないが、岩井克人的な純粋資本主義の理論的モデルとしては興味深いものがあると思う。

 阿部和重 『シンセミア』/OUTKAST 『Roses』

先日、本屋行って『文藝』夏号の阿部和重特集を読んだが結構面白かった。
阿部が言うにはシンセミア』はファンクということだが、これは極めて重要なこの小説の本質である。
阿部の86〜88年頃と思われる学生証の写真も掲載されていて、ちょっと遅れたパンクニューウェーブという感じだったのだが、JAPANの『TIN DRUM』にしろ、DAVID BYRNEにしろ、PILにしろ黒いファンクをいかに解釈し作り換えるかというのが、70年代末期から80年代前半の英米ニューウェーブの奥底に横たわっていた大きな音楽的テーマだったと思う。
その一方で、阿部もファンだというPrinceや、ビル・ラズウェルのプロデュースによるBOOTSY COLLINSの『WHAT'S BOOTSY DOIN'?』(88年)のように黒人の側がロック的なものを取り込む場合もあり、ファンクを基軸とするポップミュージックの再構築というのが80年代的なものの重要な要素として見えてくるのだが、ここで考えたいのは、それが80年代後半からクラブミュージックの中でハウスやヒップホップという機械化されたミニマル性に取り込まれていく過程であって、BOOTSYの『WHAT'S BOOTSY DOIN'?』から『Jungle Bass』(90年)への流れなどがそれを象徴している。
圧倒的なパワーを持っていた前作に比べて『Jungle Bass』のつまらなさは私としては当時結構ショックだったのだが、ハウスやヒップホップへの移行はそのミニマル性において本来のファンクへの回帰ともいえる。しかし、Rolandリズムマシンに代表されるようなエレクトロニクスによるビートはかつての肉体性を否定するものであり、それをどのように回復させるかという問題から、生のドラムフレーズをサンプリングして加工するドラムンベースのような音楽が生まれてきたと言えるのではないだろうか?
そして、90年代の後半あたりから以上のようなクラブミュージックの流れを取り込んだ上で、かつてのニューウェーブのようにファンクをベースに雑多なジャンルを内包した音楽がポップミュージックからいくつか出てきたが、現在その代表と言えるのがOUTKASTだと思う。
そのOUTKASTの『Roses』のPVを見たのだが、学園祭のようなステージで女達が見ている中、歌詞に合わせて車が衝突したり突然UFOが現れるような寸劇がアンドレ達によって上演され、途中からビッグ・ボイ達が乱入し大乱闘になる大騒ぎをしつつも何の内容も無い、というファンクの神髄を描いた素晴らしい作品だった。そして見た直後に、阿部の『シンセミア』を想起せずにはいられなかった。
シンセミア』のよく練り込まれてはいるが基本的には火曜サスペンス劇場のような既視感溢れる物語に乗って展開される、阿部もかつて見たというP-FUNKのステージを彷彿させる多数の登場人物の反復的な馬鹿騒ぎの数々。それがファンクの本質的背景であるアメリカ的田舎と対極にあるような、山形の田舎町のスタイル*1で繰り広げられ、しかもそのスタイルがアメリカの占領によってもたらされたという歴史が物語の深層に横たわっている。物語の中心的存在であるパン屋がまさにその象徴である。
これにより『シンセミア』は、ファンクでありながら、かつての村上春樹のように無批判にアメリカのイメージに頼るような事態を回避することに成功しており、また村上龍のようにアメリカの占領を多大に意識することでナショナリスティックに戦後の日本を否定するような事態にも陥っていない。
ここで重要なのは「ファンクでありながら*2という点であり、戦後アメリカに占領された東北の田舎町という舞台をリズムトラックに据えることにより米米クラブ的なジャポニズムでは全くない、今ここにある土着性としてのファンクを描くことに完全に成功している。
阿部は90年代には「J文学」などと言われる「新感覚」な作家の一人として分類されていたが、大半の「J文学」は浅田彰http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice0003.htmlで論じているように、J-POPと同様、「文化のレヴェルで自閉しようとする」つまらないものにすぎなかった。
しかし浅田は全く分かっていないのだが、90年代の終わり頃からヒップホップ以降のR&Bを取り入れる形でJ-POPが変容し始め、その中から宇多田ヒカルのようにアメリカ的なものと日本的なものが奇妙に融合したようなアーティストが出てきたわけで、阿部和重はそのような状況に唯一対応している小説家と言ってよいだろう。
シンセミア』がまさにその証明であり、この小説こそが最上の意味でのJ文学なのだ。

*1:物語の舞台である山形県神町は阿部の出身地なわけだが、さすがに山形独特のユーモアやいい加減さをリアルに描いている。私は山形出身の親戚が多いのでよく分かる。

*2:「ファンク」を「ポップの一形態」と考えれば、より普遍性のある問題であることが分かるはずだ。

 GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE 『岡崎乾二郎の新作絵画展』

柄谷行人 『Transcritique』

道徳的領域はそれ自体で存在するのではない。われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るだろう。そのときにのみ、認識の「対象」が存在する。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、芸術的対象が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧にいれられることを「命じられる」のだ。

形態的領域ははそれ自体で存在するのではない。われわれは絵画を判断するとき、材質的(絵の具かキャンバスか)、形態的(○か△か)、そして、色彩的(青か赤か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、見る者は、形態的あるいは色彩的判断を括弧に入れてキャンバスの絵の具を見るということがありうるのだろうか。そのときにのみ、材質の「対象」が存在するということが可能なのであろうか。
色彩的判断においては、絵の具がアクリルであるとか描かれた形が何かに似ているとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、色が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧にいれられることを絵画に「命じられる」のだ。しかし、そのような絵画がありうるのだろうか。
もちろん、ありうる。というか、全ての絵画がそのような命令を発している。しかし、見る者がその命令に従うことは極めて難しい。人を困難な命令に従わせるにはどうすれば良いのか。

岡崎乾二郎の新作絵画展

四谷で行われている岡崎乾二郎の新作絵画展においては、二枚の絵が隣接して並べられたセットが三組展示されていた。二枚一組の絵は一見しただけでは相互に何の関係もなくランダムにアクリル絵の具が置かれているように見える。ところが、ある程度の距離からしばらく眺めていると、アクションペインティング風に叩き付けられたアクリル絵の具のストロークのいくつかが二枚の絵で全く同じ位置に同じ形態で存在していることに気付かされる。
このように正確な同一性を有する二幅の絵画の制作方法を推測すると、まず最初に絵全体を構成するパズルのような型枠が作られ、その上から筆の勢いや角度等も意識的に同じにして描かれていると思われる。実際に型枠が使われているのかは私には分からないが、少なくとも作家の意識においては型枠が存在していることは間違いないだろう。
そして、型枠の使用は二幅の絵画に次のような複雑な特徴をもたらす。まず第一に、同一の場所に同一の形態で色だけが異なるアクリルのストロークの出現
第二に、型を切り抜いた型枠が使用されるだけでなく切り抜かれた型も使用されることにより、一方には型の形態で塗られたアクリルの部分が現れ、もう一方には型の形態でその周囲だけが塗られたキャンバスの部分が同じ位置に現れることになる。つまり、同一の場所に同一の形態でアクリルとキャンバスという材質の異なる部分が出現するのだが、このとき基底材であるキャンバスが一方に露出することで二幅における色彩の対比は無効となる。
第三に、切り抜いた型枠と切り抜かれた型が組み合わされることにより、同一の材質と色で形態だけが全体として異なるキャンバス部分の出現。
同じ型を使用した2枚の絵を並べるという岡崎の仕掛けた単純な原理は、以上のような原理的効果により、この絵を見る全ての者に、形態的判断、材質的判断、色彩的判断のうちの2つを、2枚の同一性によって停止もしくは無効化させることを命令し、残された差異によって色彩のみ、材質のみ、形態のみを見ることを絶えず強いる。したがって、この絵を見る者は、色彩、材質、形態のいずれか一つだけが存在することから逃れられないことになる。
しかし、この原理に基づいてさえいればどのような絵画であっても見る者は、形態的、材質的、色彩的それぞれの判断の停止もしくは無効化、つまりは括弧入れを命令されるということではない。なぜならば、岡崎乾二郎のこの絵画の基底に原理があるのではなく、この絵画そのものが原理だからだ。
それはこの絵が、絵を見た者に対し、認識的判断と道徳的判断を括弧に閉じこめたことを永遠に忘れさせてしまう力を持っているということである。
m&m'sのチョコレートのように色付けされたプラスティックが塗りつけられた布の壁。
これは「オモチャのようなアート」なのか?
断じて違う。
これは村上隆の作品ではない。
ただのオモチャ。
それが岡崎乾二郎の作ったものだ。