2004-01-01から1年間の記事一覧

 『文學界』 絶えざる移動としての批評

柄谷行人、浅田彰、岡崎乾二郎、大澤真幸による柄谷の思想を中心としたシンポジウム。NAMの総括もやっているが、柄谷によると自分が海外にいることが多くメーリングリストに依存しすぎて会員同士が実際に会う機会が少なかったのが失敗の第一原因だという。そ…

 Utada 『EXODUS』

Utadaの『EXODUS』日本盤には歌詞の訳と訳者との対談が付いてくる。雑誌のインタビューやTVではどうでもいいようなことしかしゃべらない宇多田だが、この対談ではわりと突っ込んだ話をしている。 その話の中心は、「何でヒッキーはここまでエッチになっちゃ…

 安室奈美恵 『ALL FOR YOU』

HEYで安室奈美恵の『ALL FOR YOU』を聴いた。HIPHOP/R&B系の前3曲とは変わって普通のバラード曲で私としては残念だが、こういう曲が好きという人も少なからずいるので仕方ない。 別に悪い曲ではないのだが、今回のような個性を感じないメロディの曲を聴くと…

 宇多田ヒカル 『誰かの願いが叶うころ』

この曲については、まず第一にメロディーに大きな力があることを言わなければならない。オクターブを上下するような激しい動きのメロディーラインが、細部を切断しつつ全体を繋ぎ合わせるという不思議な構造を可能にしている。伴奏のピアノがこの繊細なメロ…

 東京都現代美術館

東京都現代美術館に、「日本漫画映画の全貌」という日本のアニメーションを草創期から振り返った展覧会を見に行き、同時開催していたフランス周辺の印象派を適当に集めた展覧会、日本と世界の現代美術を適当に集めた常設展、「トーキョーワンダーウォール」…

 『現代思想』 柄谷行人インタビュー

上部構造というかわりに、いろんな言い方がありますね。「共同幻想」とか「想像の共同体」とか「表象」とか。一般に、上部構造を重視する人たちはかつての経済的決定論に反撥したからでしょう。しかし、そういう見方は「経済的下部構造」が何か実体的なもの…

 嶽本野ばら(原作) 中島哲也(監督・脚本) 『下妻物語』

この映画はあらゆる意味で面白かったが、単純に笑えて楽しめるという点だけをとっても庵野秀明の『キューティーハニー』など全く比較にならないくらい良くできている。どんなにバカバカしい作品でも作り手が真剣になっていなければ見る側は楽しめないが、『…

 松田聖子 『MUSIC FAIR21』

MUSIC FAIR21で松田聖子が自らのヒット曲をメドレーで歌っていた。 彼女の絶頂期がデビューの80年から最初の結婚の85年の6年間であることは誰もが認めるであろうが、80年代の前半にシングルを毎回1位に送り込む大ヒット歌手だった松田聖子の存在は日本のそ…

 東京国立博物館 『空海と高野山』

東京国立博物館の空海入唐1200年を記念した展覧会に行ってきたのだが、平日の遅い時間であるにもかかわらず混雑していた。普段現地にまで行っても目にすることのできない当時から伝わる真言密教の仏具を見ることができるとあって関心のある人が多いのだろう…

 Winny問題の本質

福田和也が言うように、ハイデガーが20世紀的問題を考える際に複製芸術の問題が大きかったわけで、複製技術によってシミュラクル商品が回っている中で固有性とか本来性みたいなものをどう獲得するかという問題が、存在者と存在の差異みたいなことに関わって…

 阿部和重 『シンセミア』/OUTKAST 『Roses』

先日、本屋行って『文藝』夏号の阿部和重特集を読んだが結構面白かった。 阿部が言うには『シンセミア』はファンクということだが、これは極めて重要なこの小説の本質である。 阿部の86〜88年頃と思われる学生証の写真も掲載されていて、ちょっと遅れたパン…

 GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE 『岡崎乾二郎の新作絵画展』

柄谷行人 『Transcritique』 道徳的領域はそれ自体で存在するのではない。われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然…

 宇多田ヒカル 『COLORS』

吉本隆明 『共同幻想論』 わたしのかんがえでは<巫女>は、共同幻想をじぶんの対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては<性>的な対象なのだ。巫女にとって<性>行為の対象は、共同幻想が凝集された象…

 否定神学としてのNo.19 あるいは、伝統化するポストモダン

東浩紀が自らの立場を「ゆうゆ原理主義」と称しているが、それについて述べておきたい。 その前に、というかこれが本題に直結するのだが、私は「ゆうゆ原理主義」という言葉を使ったことはない。それは当然のことであって「ゆうゆ原理主義」というのは原理的…