Winny問題の本質
福田和也が言うように、ハイデガーが20世紀的問題を考える際に複製芸術の問題が大きかったわけで、複製技術によってシミュラクル商品が回っている中で固有性とか本来性みたいなものをどう獲得するかという問題が、存在者と存在の差異みたいなことに関わっていくのだろう。
しかし、ハイデガーの存命中は複製技術といってもアナログレコードや書籍の時代、すなわち不完全な複製技術の時代だったので、この中途半端な複製可能性がかろうじて問題を覆い隠していたわけだ。
ところが、80年代後半以降のソフトのデジタル化とネットワーク技術によって、完全な複製技術及びその流通が可能になり、無限の複製可能性が確立すると固有の価値としてソフトに値段を付けるのは困難になってくる。無限に複製可能な商品の値段は限りなくゼロ近づくということだ。もちろんオリジナルの制作費は常に存在しているのだが、無限の複製可能性がその固有性を消去してしまうのだ。
そこでこれでは困るというわけで、「新技術」によって無理やり不完全な複製可能性を復活させようというのがCCCDなり何なりであって、こんなものをやるくらいならCDなど止めてアナログレコードに戻して、レーザー針プレイヤーを普及させた方がマシではないかと思うが、技術がある限り結局は複製されてしまうわけで、そういうことをやっていると本当にインターネット禁止というバカげた事態に成りかねない。まあ、現実的には法律を変えてでも「違法コピー」を摘発する方向で対処していくのであろう。
しかし、ここでよく考えなければならないのはやはりオリジナルの問題なのだが、それはオリジナル作品についてというよりも、究極のオリジナルであるコンテンツ製作者としての人間と経済システムとの関わりについてだ。
どういうことかと言うと、クローン技術により人間の複製不可能性も大分怪しくなってきているとはいえ、今のところは複製不可能な人間に値段を付けることができれば、複製可能なコンテンツに無理矢理値段を付ける今の流通システムにとって代わることができるのではないか?という考えの転換である。
Winny事件で逮捕された47氏の考えていた「デジタル証券によるコンテンツ流通システム」の思想的な意味はそこにあるのではないか。
47氏のこのシステムの説明はメモ的なものであってよく分からない点もあるが、私の解釈では、原理的には株式会社法人と証券市場の仕組みと同じもの、すなわち、会社がヒトとモノの所有関係に法人というヒトでもなければモノでもない中間的存在を導入したのと同様、コンテンツ製作者とコンテンツ製作の関係に法人的存在を導入し、株式会社同様に証券化によりその分割所有を可能にし交換可能性を確立させ、値段の付けられなくなったコンテンツそのものの市場にとって換えるというシステムであると考えられる。つまり、本来分割もできなければ交換もできないはずのコンテンツ製作者としての人間を法人化して流通させようというわけだ。
したがって、このシステムは株式会社と株式市場の二つの面、すなわち事業の為の資金調達とキャピタルゲインの獲得という面を併せ持ち、前者は実用的なソフト製作に、後者は芸術作品全般の価値付けに適応するのではないだろうか。
もちろん、現在の流通を根底から覆すこのようなシステムが直ちに普及するとは現実的には考えられないが、岩井克人的な純粋資本主義の理論的モデルとしては興味深いものがあると思う。