宇多田ヒカル 『COLORS』

吉本隆明 『共同幻想論

わたしのかんがえでは<巫女>は、共同幻想をじぶんの対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては<性>的な対象なのだ。巫女にとって<性>行為の対象は、共同幻想が凝集された象徴物である。<神>でも<ひと>でも、<狐>とか<犬>のような動物でも、また<仏像>でも、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは、巫女にとって<性>的な対象でありうるのだ。

宇多田ヒカルの歌はラブソングでありながらも、性的な対象が常に世界全体と入れ換わりうる構造を持っている。吉本の『共同幻想論』における巫女論にしたがえば、それは「巫女の歌」ということになるが、今やほとんど不可能になった共同幻想と対幻想の交換を、歌うという行為において可能にしつつ、幻想の外部を露出させたのが『COLORS』である。

『COLORS』の詩の解明

ミラーが映し出す幻を気にしながら いつの間にか速度上げてるのさ
どこへ行ってもいいと言われると 半端な願望には標識も全部灰色だ
炎の揺らめき 今宵も夢を描く あなたの筆先 渇いていませんか

ラカン鏡像段階論によると、幼児は「ミラーが映し出す幻」つまり鏡に写った自分の姿を見ることで、視覚によって自己の統一性を内面的統一の前に先取りする。この先取りは幼児にとって決定的に重要な意味を持ち、やがて鏡に映る自己身体の統一像は他者の知覚像に取って換わる。このとき自己の統一性は他者のものとなり、自分自身を認識することによってもたらされる主体の自由は、「どこへ行ってもいいと言われ」ても「半端な願望」しか持つことが出来ず、自己の欲望としての「標識」は他者の欲望との鏡像関係において「灰色」になる。
このようにして他者に奪われた自己の統一性を取り戻すためには、「夢」としての他者との一体化を目指すしかない。そこで、「炎の揺らめき」に「あなたの筆先」を濡らす、すなわちヴァギナにペニスを結合させる<性>行為が欲望されることになる。

青い空が見えぬなら青い傘広げて いいじゃないか キャンバスは君のもの
白い旗はあきらめた時にだけかざすの 今は真っ赤に誘う闘牛士のように

「自分にとって青く見える空が、どうして他人にも青として認識されるのか?」という問いは、言語と自然とを結ぶ共同幻想の確認のために詩の題材としても度々用いられる。しかし、この曲においては「あなたの筆先」が描く「キャンバスは君のもの」、つまり、あなたの欲望が描かれるキャンバスである私は「君のもの」なのだから、「青い空」が見えなくても、あなたの「青」は私の「青」であって、「青い傘」=「あなたの筆先」を広げればよいという。
すなわち、共同幻想である「青い空」が対幻想としての<性>的な対象である「青い傘」に転換させられることで、自己の統一性を求めることに対する「あきらめ」を拒み、他者との一体化を「真っ赤に誘う闘牛士のように」受け入れる。

カラーも色褪せる蛍光灯の下 白黒のチェスボードの上で君に出会った
僕らは一時 迷いながら寄り添って あれから一月 憶えていますか

しかし、空が共同幻想の対象であるのは今やロマン的な心性に過ぎない。ポスト近代において、空は「カラーも色褪せる蛍光灯」で覆われ、システム化されたマトリックスとしての「白黒のチェスボードの上」でしか君と出会えなくなる。そして、君との出会いと別れは僅か「一月」で忘れ去られるものとなる。

オレンジ色の夕日を隣で見てるだけで よかったのにな 口は災いの元
黒い服は死者に祈る時にだけ着るの わざと真っ赤に残したルージュの痕

このような世界で、「オレンジ色の夕日を隣で見てるだけで よかった」ロマン的な心性も、「災いの元」になる口=言葉によってアイロニーとしてのロマン主義へと転化されてしまい、共同幻想は最早、「黒い服は死者に祈る時にだけ着る」ような形式性にしか残されておらず、「真っ赤に残したルージュの痕」は「わざと」という主体的抵抗においてしかあり得ないことになる

もう自分には夢の無い絵しか描けないと言うなら 塗り潰してよ キャンバスを何度でも
白い旗はあきらめた時にだけかざすの 今の私はあなたの知らない色

共同幻想が消滅しつつある中、「もう自分には夢の無い絵しか描けない」、つまり他者と一体化することで奪われた自己の統一性を取り戻せないのならば、同一の他者へのパラノイアックな囚われの関係から、「キャンパスを何度でも」塗り潰すような入れ替え可能な関係への移行が要請される。
しかしこのとき、あきらめない、すなわち入れ替え可能な関係も共同幻想へと引き戻されることも拒む「今の私」は、単独者としての固有の「あなたの知らない色」になってしまう。

『COLORS』の映像(DVD)の解明

このように歌詞だけを解明すると、この歌は「巫女の歌」というよりもむしろ、近代の中で大きな位置を占めていた共同幻想吉本隆明)あるいは象徴界ラカン)が衰退し、それらが保証していた「私」の固有性が消滅していく中、入れ替え不可能な「実存としての私」を確信する歌と受け止められるのではないだろうか?
ここで宇多田の歌の変遷を考えると、デビュー曲の『Automatic』ではタイトルが示す通り「私」は完全に他者に委ねられるものとなっていたが、『Addicted To You』では他者の存在はたんに「私」の「クセ」が求めるものとなり、『For You』においては「君がくれた歌を口ずさむ」が「誰もなにも君に頼ろうと思ってるわけじゃない」といい、しかし、「誰かのためじゃなく 自分の為にだけ 歌える歌があるなら 私はそんなの覚えたくない」と「私」の実存性を確心しつつ、「私の世界」が全てであるような独我論を否定する。
ここにおいて、宇多田の歌詞における実存主義的な思想性は確立されたと見てよいが、その後もロマン主義的なアイロニーを多分に孕みつつ、同様の思想が継続された。そして、『COLORS』においてはアイロニーの果てに、入れ替え不可能な「実存としての私」の孤独を最終的に確信する歌詞になっているわけだが、それを歌うPVの映像を見てみると全く異なる意味が浮かび上がってくる。
そのポイントは「服」にある。
というのも、PVの本編が始まる前の本人の解説で、今回の作品で着ている服が衣装ではないこと、演じている役ではなく「私」の服であることを強調しているのだが、ここで注目すべきは服の説明をするときに着ている彼女の服が、日の丸という近代日本における共同幻想の象徴を明確に提示しているということである(写真1)。
そして、イメージとしての日の丸は本編においても、近代がシステム化されたことが歌われる場面(カラーも色褪せる〜憶えていますか)で、彼女自身が着た赤い服によって一つのシーンとして提示される(写真2)。この画面と歌詞を対比させれば、共同幻想が消滅していく中、強引にそれを再現させようとする者へのアイロニーを感じさせずにはいられないのであるが、最大のポイントは次に続くシーン、「黒い服は死者に祈る時にだけ着るの」と共同幻想が形式的な場においてしか残されていないことを歌うとき、その歌詞に反するように黒い服を着て歌う場面である(写真3)。
このとき、共同幻想における象徴的なもの一切が歌という行為に転化され、それによって他者との一体化という対幻想もまた、その対象を一つの身体へと還元する。
ロマン主義的なアイロニー実存主義との共犯関係が隠蔽してきた他者が、歌うという行為によって一気に現前するのだ。
これが「巫女の歌」だ。
  

 否定神学としてのNo.19 あるいは、伝統化するポストモダン

東浩紀が自らの立場を「ゆうゆ原理主義」と称しているが、それについて述べておきたい。
その前に、というかこれが本題に直結するのだが、私は「ゆうゆ原理主義」という言葉を使ったことはない。それは当然のことであって「ゆうゆ原理主義」というのは原理的にあり得ないからだ。なぜか?
その理由は、ゆうゆ自身が原理主義者であったからに他ならない。
原理主義?何に対して?言わずもがな松田聖子に対してである。
松田聖子に対する原理主義的な信仰こそがゆうゆ問題、そして今に繋がる日本の80年代問題の本質に他ならないのだが、これは実は特定の世代の問題ではなくある普遍性を持ったものである。以下にその詳細を説明しよう。
松田聖子が何者であるか?という問いについては当時から早い時期に答えは出ていた。それは一言でいえば「ブリッコ」ということになるのだが、これをたんに当時の流行語として片づけてはいけない。というのも「ブリッコ」とは自己意識の問題、すなわち他者に見られるということを過剰に意識する問題に他ならないのであるが、例えば「ネタ」というのが常に他者の視線を前提にしていることを考えれば十分に現代的な問題でもあるのだ。そしてここで重要になるのが「他者」という存在である。松田聖子を代表とする大抵の「ブリッコ」=自己意識過剰な者における他者とは実は自分自身のことであり、したがって他者の不在が糾弾されることになる。例えば、「聖子ちゃんカット」とは他者の視線の為ではなく自分がカワイイと思っているからそうしているだけではないのか?そのような「自分」が集まった共同体は何と閉鎖的なことか!というわけだ。
そこで次の段階に入ると、いきなり髪を短く刈り上げするアイドルというのが登場することになる。これは他者=自己の視線をシャットアウトし、自己が「刈り上げカッコイイ」という他者になることで松田聖子的「ブリッコ」を批判的に乗り越えようとしたものである。これが小泉今日子=KYON2なのだが、重要なのは本人よりもそれを支えたイデオローグ達が浅田彰ニューアカデミズムあるいはポストモダニズムの信奉者すなわち「新人類」だったという事実である(刈り上げ行為が重苦しい実存的決断によって行われたのではなく「軽やかに」実行されたというのがポイントである)。
しかしながら、このKYON2的戦略も長くは続かない。というのも髪を刈り上げにしたところで結局すぐに自己意識に回収されてしまい、次の更なる「過激」な他者性を志向しなければならなくなるからであって当然それは行き詰るしかないからだ。
そうなると次に要請されるのが「技術」である。ただしここでいう「技術」とは自己と他者の視線の差異を解消するための共通のコードとしての「技術」であり、これは新しさが志向される科学技術を意味する場合もあるが、一方で伝統的価値によって認められた身体的技術が求められることも多い(したがってこの段階でポストモダニズムからモダニズムへの回帰が読み取れる)。
この流れにしたがってKYON2の後継者として新人類達に指名されたのが機械のように正確な動きと歌を賞賛された岡田有希子であって、彼女の最後のシングルが松田聖子作詞、坂本龍一作曲である事実を踏まえれば、80年代的なものの存在は彼女で完結するはずであったのだが、岡田の突然の自殺によってこの方向性そのものが「時代との不一致」を強く印象付けられた。
このような経過を経て最後に残ったのは、各人の自己意識を形式化することでネタからベタへの転換(天然化)を計り、メタレベルにいるものがキャラクターとして操作することで過剰な自己意識がもたらす他者(個性)の排除を回避しつつ全体として一つの自己意識集団を形成するという戦略であり、言うまでもなくそれこそがおニャン子クラブ(メタレベルにいるものがとんねるず)に他ならないわけである。
この構造は極めて強固なものであり現在でも様々な領域で見られるのだが必ずしも完全なものではない。というのは決して形式化できない自己意識というものが存在するからであって、それが自己意識の過剰性に対する原理主義的な信仰に基づく自己意識である。ただの原理主義的な信仰に基づく自己意識なら容易に形式化できる。しかし、自己意識そのものを原理主義的に信仰している自己意識は決して形式化できない。なぜならばすでに原理主義において形式化されてしまっているからだ。
この自己意識の過剰性に対する原理主義的な信仰こそが、熱狂的聖子ファンを自称していたゆうゆの松田聖子への、つまりは自己意識の過剰性を体現する存在=「ブリッコ」への原理主義的信仰に他ならず、これによりおニャン子とんねるず的超越性とは異なる超越論性(実存としてのゆうゆと、構造としてのおニャン子アンチノミーの関係を結ぶような)をもたらしネタ/ベタ構造の論理的脱構築を可能としたのであって、おニャン子のシステムはつねに安定性を欠きつつも、まさにその不安定さよって安定を獲得したのである。
ところで、以上の自意識を巡る構造的変遷は決して昔の話ではない。今でも十分にアクチュアルな問題であって、例えば憂国呆談における浅田彰の金原と綿矢の両芥川賞受賞作家の評価にも当てはまるのだ。
この中で浅田は、綿矢りさを「ブリッコ」と切り捨てる一方、「ピアシングなんかをテーマにしてるわりに、良くも悪しくも素直に書けてて」と金原ひとみを持ち上げつつその「ナイーブ」さを嘆く(この嘆きの背景には文学的モダニズムの不在に対する強い不満があることを見逃してはならない)。このような現状認識を上記の80年代アイドルの変遷と対比させると、刈り上げがスプリットタンに変わっただけで20年前の松田聖子小泉今日子の対立の図式がかつての新人類達のイデオローグだった浅田彰自身によって見事に反復されていると言ってよいだろう。
20年の時を経て繰り返される80年代の自意識闘争/逃走。これはもはや『伝統化するポストモダン』と言うべきものではないだろうか。

 仏教の思想と西洋の思想

空海の即身成仏論と華厳思想、カントの哲学とラカンの三界、吉本の共同幻想論の関係図

     ▼ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄▼ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄▼
              縁起                      性起
                    アンチノミー
                     ●即身成仏論●
  (本)体     |         (様)相           |   (作)用
    六大      |          四曼            |    三密
              |    金剛界《》胎蔵界      |
        |      心数《》心王        |
                      ●華厳思想●
事事無礙法界  |    事法界《》理法界      | 理事無礙法界
              |     自性 《》自性の否定  |
                    アンチノミー
                       ●カント●
    感性      |    悟性(認識の各領域)  |     理性
   物自体     |          現象            | 超越論的仮象
              |    正命題《》反対命題    |
              |    実践的《》理論的      |
                       ラカン
   現実界象徴界想像界
    もの      |          言葉          |    意味
        |シニフィエ《》シニフィアン|
    他者      |    自意識《》無意識      |    対象a
       |      在  《》 不在       |
                    アンチノミー
                     共同幻想論
経済的諸範疇  |  自己幻想《》共同幻想    |   対幻想
     ▲__________▲__________▲

三界の結びつきを示すボロメアンの環


純粋理性のアンチノミー 先天的理念の第三の自己矛盾

正命題

自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。

反対命題

およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。

カント 『純粋理性批判岩波文庫 中 篠田英雄訳)』

空海 『即身成仏義(部分)』 現代語訳

【a 即身の詩】
(一)現象・実在の両世界の存在要素である六つの粗大なるもの〔六大〕*1は、さえぎるものなく、永遠に融合しあっている。<体>
(二)四種の曼荼羅*2は、それぞれ(様相の異なる真実の相を表わしており)、そのまま離れることはない。<相>
(三)ほとけとわれわれの身体・言葉・心の三種の行為形態*3が、不思議な働きによって感応しあうとき、すみやかにさとりの世界が現れてくる。<用>
(四)あらゆる身体が帝釈天の持つ網のように、幾重にも重なりあいながら映しあうことを、身に即して〔即身〕という。<無礙>
【b 成仏の詩】
(五)あらゆるものは、あるがままに、すべてを知る智を具えており、
(六)すべての人々には、心そのもの〔心王〕と心の作用〔心数〕がそなわって、無数に存在している。
(七)心そのものと心の作用のそれぞれには、五種の如来の知恵と、際限のない知恵が十分にそなわっている。
(八)それらの知恵をもって、明らかな鏡のように全てを照らし出すから、真実をさとったものとなるのである。

頼富本宏 『密教講談社現代新書)』

*1:六大とは、現象と実在の両様の世界にまたがる存在要素である「地・水・火・風・空」と「認識」という六つの要素。

*2:四種の曼荼羅四蔓)とは、尊像(大)・象徴物(三摩耶)・文字(法)・立体(羯磨)の四つ。

*3:「即身」と呼ばれるものを、作用として把握すると、身体と言葉と心という三種の行為形態(三密)として理解できる。

 複式簿記の基本的な説明

複式簿記とは何か?

ここではLETSの原理を理解するために、それと全く同じ原理である複式簿記の基本をごく簡単に説明する。
複式簿記とは500年以上の歴史を持つ世界標準の企業会計の記録方式である。複式簿記形式で時系列にそって記録されたものを仕分帳といい、それを内容によって分類したものを元帳という。それをもとに作られた決算書(貸借対照表損益計算書)は、ある時点における企業の財務状況を正確に表わすものであり、銀行や投資家はそれを見て融資や投資の判断しているのである。したがって、複式簿記の発明こそが再投資を可能にし世界的な資本主義を発展させたと言っても過言ではなく、その基本を理解することは金融業者や投資家だけではなく、一般の労働者や消費者にとっても大事なことなのである。
それでは、一般の家計簿などに比べて複式簿記の利点はどこにあるのか?それは、企業会計では現金や普通預金当座預金などが借入金や入金、支払いなどと絡み合い、買掛金や売掛金のように後から支払ったり入金されるものもあるので、家計簿のように一つの要素(現金)を出入のみで分ける方法では複数の帳簿が必要なのに対し、複式簿記の場合、一つの帳簿で全ての取引を記録できるという点にある。つまり複式簿記は多角的な取引を記録できる最も合理的なシステムであり、だからこそLETSにそのまま適用できるのである。

「借方」と「貸方」

複式簿記は一般的には、その企業内部の資産や資本の増減と収益や費用の発生を記録するものと考えられている。しかし考え方によっては、企業自身と取引相手だけで成立する市場(取引相手はその企業とだけしか取引しないと仮定する)の取引記録と見なすこともできるのである。LETSに適用する場合、この考え方の方が分かりやすいので以下はそれに従って説明する。
複式簿記の最大の特徴は一つの取引を「お金を受け取る方」と「お金を支払う方」に分けて、その両方を記録するという点にある(だから「複式」になる)。そして、「お金を受け取る方」を「借方」と呼び左側に、「お金を支払う方」を「貸方」と呼んで右側に記載するのが決まりであって、「借方」「貸方」のいずれか一方に企業自身が、もう一方に取引相手が入る(現金を自分の口座に預金する場合、買掛金や売掛金の場合等、両方とも企業自身になることもある。また、お金を貸す場合も「お金を支払う方」になり「借入金」として貸方に記載される)。ただし、企業自身は「現金」、「普通預金」、「当座預金」などと分類して記載されるが、取引相手は個々の名前ではなく、客の場合「売上高」、仕入先の場合「商品仕入高」などと一括して記載される。
さらに重要な点として、借方と貸方の合計金額は仕訳帳から決算書までの全過程で必ず一致し、一致しない場合は会計の過程で何らかの間違いが発生していることがすぐに分かる。これも複式簿記のメリットの一つであって、この借方と貸方の合計金額の一致こそがLETSの主要な特徴であるゼロサム原理なのである。
説明だけでは分かりにくいので例を挙げる。
亀井商店で10月2日に客が200円のタワシを買った場合の亀井商店の複式簿記の記録は次のようになる。

日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
10/02 タワシ 現金 売上高 200 200
店(亀井商店の現金)が代金を受け取ったので借方に、客(売上高)がお金を支払ったので貸方に記載されている。
ところで、「借方」「貸方」という呼び方は銀行用語から派生した習慣的な符牒に過ぎないのだが、これをLETS的に考えると、お金を受け取ることは市場(Community)が受け取る側にお金を借りることであり、お金を払うことは市場(Community)が支払う側にお金を貸すことと考えられる。つまり市場(Community)を主体(主語)に考えれば、受け取る側が借方であって支払う側が貸方であることが理解できる。

複式簿記会計の例

ここで、複式簿記による会計の流れをごく単純化した例で説明しよう(買掛金や売掛金のように出金や入金に時間的ズレがある取引の記録ができることは複式簿記の優れた特徴なのだが、ここでは省略する)。

広告会社をリストラされた森君は自らウェブサイト製作会社を作ろうと思い、友人の亀井君に現金で400,000円を2月1日に出資してもらい、もう一人の友人の野中君から100,000円を2月24日に借入れ、銀行口座に振込んでもらった。
こうして社員は森君一人だけの会社「アイテイ企画」が立ち上がり、森君はさっそく商売道具となる150,000円のパソコンを3月5日に購入し、3月13日に近所のチラシ屋さんに50,000円で宣伝を依頼した。
宣伝の効果があったのか、隣町のフィットネスセンター「アオキー」からウェブサイト製作の依頼があり、森君は見事なウェブサイトを作って、アオキーから製作代金350,000円を4月21日に銀行口座に振込まれた。
そして、森君は自分の給与120,000円をアイテイ企画から4月25日に現金で受取り(つまり自分で自分の給料を払った)、銀行口座から4月30日に10,000円を野中君に返済した。

上記の例の会社設立から4月30日現在のアイテイ企画の会計は次のようになる。
まず最初に2月1日から4月30日までの全ての取引を記録した仕訳帳を作る(分かり易くするために色分けした)。


アイテイ企画 仕分帳(2月1日から4月30日まで)
日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
02/01 亀井 現金 出資金 400,000 400,000
02/24 野中 預金 借入金 100,000 100,000
03/05 パソコン 事務機 現金 150,000 150,000
03/13 チラシ 宣伝費 現金 50,000 50,000
04/21 アオキー 預金 売上高 350,000 350,000
04/25 給与 現金 120,000 120,000
04/30 野中 借入金 預金 10,000 10,000
次にこの仕訳帳をもとに、現金や借入金などの各項目(勘定科目)ごとに口座をまとめた帳簿を作る(総勘定元帳)。

現金(資産)
日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
02/01 亀井 現金 出資金 400,000  
03/05 パソコン 事務機 現金   150,000
03/13 チラシ 宣伝費 現金   50,000
04/25 給与 現金   120,000

預金(資産)
日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
02/24 野中 預金 借入金 100,000  
04/21 アオキー 預金 売上高 350,000  
04/30 野中 借入金 預金   10,000

借入金(負債)
日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
02/24 野中 預金 借入金   100,000
04/30 野中 借入金 預金 10,000  

出資金(資本)
日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
02/01 亀井 現金 出資金   400,000

売上高(収益)
日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
04/21 アオキー 預金 売上高   350,000

事務機器(費用)
日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
03/05 パソコン 事務機 現金 150,000  

宣伝費(費用)
日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
03/13 チラシ 宣伝費 現金 50,000  

給与(費用)
日付 摘要 借方 貸方 借方金額 貸方金額
04/25 給与 現金 120,000  
次に各勘定科目の貸方と借方を合計し差引残高を計算する(合計残高試算表)。このとき、貸方と借方の合計と残高は必ず一致する。これがゼロサム原理(貸借平均の原理)であり、一致しなければどこかで計算か転記の間違いがあるはずである。

合計残高試算表(4月30日現在)
貸方 貸方 勘定科目 借方 借方
残高 合計   合計 残高
80,000 400,000 現金 320,000  
440,000 450,000 預金 10,000  
  10,000 借入金 100,000 90,000
    出資金 400,000 400,000
    売上高 350,000 350,000
150,000 150,000 事務機    
50,000 50,000 宣伝費    
120,000 120,000 給与    
840,000 1,180,000 合計 1,180,000 840,000
上の合計残高試算表で計算された収益(売上高)から費用(事務機器、宣伝費、給与)を引くと、その期間における純利益が出る。
純利益:売上高350,000-費用合計(150,000+50,000+120,000)=30,000
純利益が確定すればアイテイ企画の貸借対照表(バランスシート)と損益計算書が作成できる。

アイテイ企画 貸借対照表 (4月30日)
資産の部 金額 負債・資本の部 金額
現金 80,000 借入金 90,000
預金 440,000 資本金 400,000
    当期純利益 30,000
合計 520,000 合計 520,000

アイテイ企画 損益計算書 (2月1日から4月30日まで)
費用 金額 収益 金額
事務機 150,000 売上高 350,000
宣伝費 50,000    
給与 120,000    
当期純利益 30,000    
合計 350,000  合計 350,000
貸借対照表の資産の部と負債・資本の部、損益計算表の費用と収益が、共に合計額が一致している。このように、複式簿記会計においてはゼロサム原理がどの場面でも貫かれることで、上の例よりもはるかに複雑な実際の会計でも正確さが保たれるのである。
以上で複式簿記会計の基本的な原理を理解されたと思うが、この原理はLETSにおいても全く変わらない。
「現金」や「宣伝費」といった各勘定科目をLETSの参加者の名前に置き換えるだけで、仕分帳が時系列に沿った取引の全体記録に、総勘定元帳が参加者個々人の取引記録になるのである。
また、LETSには「資産」や「費用」といった区別はないので、貸借対照表や損益計算表を作る必要はないが、プラスの残高とマイナスの残高を左右に分けた合計残高表を作成することで取引の全体状況を把握することができるだろう。
アソシエーショニズム マニュアル その2

 市民通貨の基本的な説明

市民通貨の歴史と2つの方式

市民通貨地域通貨)が広く実践されたのは1920〜30年代にかけての大恐慌後の不況の時代である。ドイツ、オーストリアアメリカで広まったが、戦争に向かう時代の中で禁止され廃れていった。しかし、多くの共産主義国家が崩壊し資本主義のグローバリズムが広がった1990年代の始めから、アメリカ、カナダ、ドイツなどで再び注目を浴びるようになり、その数は世界中で増え続け現在では大小合わせて2000以上、日本でも30以上あるといわれる。
このような最近になって広がった市民通貨には大きく分けて2つの方式がある。
一つは国がやっていることをそのまま自分達のCommunityでやってしまおうという単純な方法で、「自分達で独自にお金を印刷し、その発行を管理する」というものである。代表的なものに、アメリカのニューヨーク州トンプキンス郡イサカでポール・グローバーという人が1991年に始めた「イサカアワー」がある。日本における代表的なものとしては滋賀県草津市で1999年に始められた「おうみ」や、大手広告代理店が渋谷で2001年に始めた「r(アール)」という清掃ボランティアと地域のカフェの宣伝を目指した市民通貨もある。
もう一つは、Local Exchange Trading System(地域交換取引制度 略称LETSと呼ばれる方式で、1983年にカナダのマイケル・リントンという人が提唱し実践した。
LETSの他の例としては、ドイツのザクセン・アンハルト州ハレ市(旧東ドイツ)で1992年に始められた「交換リング」と呼ばれているものがあり、日本では千葉市「ピーナッツ」や、苫小牧市の「ガル」がある。
LETSは単純にお金を発行するというよりも、その運用のための会計方法であって一般的な通貨のイメージとは異なる。まず基本的に紙幣の発行はせず、その代わりに参加者は登録制となり、メンバーに登録した人は「通帳のようなもの」を各自が持ち、モノやサービスを買ったらその人の通帳口座に買った金額分のマイナス(赤字)が記録され、売った人にはその金額分のプラス(黒字)が記録される。またその取引は管理委員会のようなところにも同時に記録される。つまり、銀行の預金通帳から直接引き落とされたり入金されたりするような方式で硬貨や紙幣無しの経済活動を可能にするという仕組である。なお最初は誰もが口座ゼロか始めて赤字には利子が付かない。さらにこれが重要なのだが、黒字も赤字も参加者個々人に対するものではなく、LETSを行うCommunityに対するものとなる。だからこそ通貨として機能するのある。
また、この方式の特性上、全ての赤字の参加者の口座と黒字の参加者の口座を合計すると必ずゼロになり、これをゼロサム原理という。
なお、いずれの方式の場合も、その通貨が何を基準にその値を決めているのかという問題がある。LETSの場合は取引する当事者が相対で自由に価格を決められるというのが重要なのだが、その場合でも一応の基準は必要とされる。一般の市場においては商品の需給のバランスによって価格が決定されるわけだが、市民通貨の狭い市場では自立的に価格が決定することは極めて困難になる。
そこでスムーズな取引を考えれば、国民通貨(円)にリンクする形(市民通貨の単位がPだとすると1P=1円)が実用的だと思われ、実際の場合もこのように運用している市民通貨が多いようだ。
また一般的な市民通貨においては、それを循環的に安定して運用するために、国民通貨(円)を市民通貨に交換することは可能なのだが、その逆は禁止されていることがほとんどである。

LETS方式の利点と特性

上で述べたように市民通貨には2つの方式があるが、それぞれに一長一短が存在する。
まず前者の紙幣発行方式の場合、基本的には国民通貨と同じ方式なので誰にでも分かりやすく、取引も簡単で匿名性も守られるという利点があるが、その一方で紙幣発行者が大きな権限を持ち責任も重大になる。もちろん紙幣の発行においてはルールを定めるが、市民通貨の規模が大きくなると管理が困難になってしまう。つまり国民通貨が抱える問題と同じことが生じてしまうのである。また、独自に紙幣を発行する行為は違法と見なされる可能性もある。
後者のLETSの短所としては取引の度に口座記録を行うため手続きが煩雑になり、取引の匿名性も失われる。ただし、パソコンを上手く利用すれば手続きの煩雑さは解決されるだろう。
一方、長所としては参加者がその責任でもって赤字を発行すること(つまりお金を発行すること)で、お金の発行の管理が上手くいかなくなるという国民通貨が抱える問題を回避することができる。また、現在お金を持っていない人でも利子のつかない赤字によって必要なものを得て、将来的に黒字を得られるような仕事を探すという利点もある。
つまり、お互いが助け合うCommunityを構築するという市民通貨導入の目的を考えればLETSの方が望ましいと言えるのである。
ところで、このLETSの特性、すなわち取引が発生するとそれを赤字と黒字に分け記録し、参加者の赤字と黒字を合計するとゼロになるという仕組みは、実は複式簿記の原理そのものなのである。会計に詳しい人ならば理解できると思われるが、黒字と赤字を借方と貸方と考えれば分かりやすいだろう。したがって、LETSのコンピュータプログラムは複式簿記のプログラム(仕分帳から元帳をつくる)を基本的にそのまま応用できるし、コンピュータを使わない場合、貸方と借方だけが記録された伝票が複写される「仕分伝票」を使うと便利なのである(ただし会計がコンピュータ化された現在、「仕分伝票」は入手困難である)。
複式簿記の基本的な仕組みは次の章で説明する。

LETSは投資概念を基礎とする

一般の会計においては、口座かマイナスになることを赤字、つまり負債と認識するのが普通である。しかし、LETSにおいては黒字も赤字も、参加者個々人に対するものではなくCommunityに対するものであり、赤字とは言わず「(Communityに対する)コミットメント」と言う場合もある。
そこで、通常利子は付かず返済期限もないLETSにおけるマイナス(赤字)を「Communityに対する負債」と考えるよりも、「Communityからモノやサービスをどのくらい投資されたかを示す指標」と考えたほうが、よりLETS本来の考えに近いと思われる。一方で商品を提供したときに受け取るプラスの通貨は、「Communityに投資したことの証明書である株式」のように考えればよい。
普通「投資」といえば貨幣によるものを指すが、この場合の「投資」はモノやサービスの提供であることに注意してほしい。

 円と組み合わせたLETSの具体例

割引ポイント還元制度を応用したLETS

以下に紹介する方法は、既に日本各地の商店街で行われているポイント還元制度と基本的には同じものである。それは最近になって多くの大手家電量販店がやっているポイントカードと同じく、買い物をしたら買値の2〜5%ぐらいがポイント還元としてカードに貯められ、次回に買い物をするとき貯めたポイントがお金と同じように使えるというもので、大手量販店ではその店の各支店だけでしか使えないのだが、商店街全体で共通のポイント還元を導入することにより八百屋で買い物をしたときに貰ったポイントが同じ商店街の魚屋においても使えるというものである。そのことにより顧客の囲い込みをはかり地元の大手ショッピングセンター等に対抗するわけである。
ただし、商店街共通のポイントカードは大手量販店単独のポイントカードと大きな違いがある。それは、客が使ったポイントを使われた店が他の店に対し再びポイントとして使えるということで、これによって、その商店街の内部でポイントが通貨と同じ役割を果たすのである。
以下に、実際に行われている商店街共通ポイントカードの場合を説明しよう。
この共通ポイントカード制度に参加した店は、買い物をした客の希望によりポイントカードを発行し、100円の買物をする毎に1ポイントを加算していく。そして350ポイント(35.000円買い上げ相当)を貯めるとカードが満点となり700円の買い物券として利用できる。つまり、1ポイント(100円)につき2円の割引(2%)となるわけである。この他にレジ袋不要を申告すると1ポイントもらえる制度や、地域イベントへの参加券として使える制度もあるが、最も重要な特徴は上で述べたように、客が使ったポイントカードを使われた店も買い物券として他の店で使えることにある。
この例の場合には、客が700円の買い物券として使ったカードを500円の買い物券として使えるのだが、これにより、ポイントを発行することの多い店(得をする)とポイントが使われることの多い店(損をする)との不公平をなくすわけである。また、700円から500円に減額するのは、自分の店で発行したポイントを自分の店で使われ、そのカードを他の店で利用する場合の不公平を減らすためである(その店の利益を除いた分が使えるという考え)。
つまり、複数の店が集合した商店街で共通に使えるポイントカードを運用する工夫として考えられた上のような制度が、あたかも商店街同士の市民通貨のように作用するのだが、これを完全な通貨と考えると問題がある。というのも、この制度では客のポイントカードには貯められたポイントが正確に記録されるが、各店が発行したポイントと使われたポイントは記録されていない(ただし、ICカードなどを利用したところでは記録されているかもしれない)。したがって、ポイントを発行することの多い店(得をする)とポイントを使われることの多い店(損をする)の格差は不透明になってしまっている。
そこで、この問題を解消するためにLETSを取り入れる。
具体的には、客にポイントを発行するとその店に発行したポイント分のマイナスが記録される。客にはその分のプラスが記録される。そして客がそのポイントを参加店で使うと、客にはその分のマイナスが記録され(0になると使えないので客にマイナスの状態はない)、使われた店にはプラスが記録される。そして各参加商店のポイントは常に公開される(客のポイントは全体としては公開されるが個々人のポイントはプライバシー保護の観点から本人以外に公開すべきではない)。
この方式により、得をしている店と損をしている店が明らかになり、マイナスの多い店(得をしている店)に対してはプラスの多い店や客がその店に積極的にポイントを使うことで格差が解消される。また、意図的にポイントの使用を拒む悪質な参加店があれば明らかになるし、業態的にマイナスの多くなる店(客単価が高くリピート率の低い商品を扱う店)にも何らかの解決策が計れるわけである。
つまり、商店街共通ポイントカードにLETSを取り入れることにより参加商店の損得関係が明確化し、通貨として最も大切な「信用」を向上させることが出来るのである。
これにより、現状の2%程度の割引率をある程度上げることができるはずであり、少なくと5%ぐらいに上げれば客の参加も増えると思われる。また、そもそも割引率を一律にする必要もなくなる。例えば、販売単価の低い店では10%の割引率(100円に対して10円)にして、単価の高い店は1%(1万円に対して100円)にすることで幅広い業種の参加が見込める。
では具体例を説明するが、消費税の計算や店(法人)のポイントを個人が使用する際の税法上の扱いといった問題は省略する。

運用の具体例

大手量販店の進出により客足の遠のいたある地方の商店街で、地元の客を呼び戻すためにLETS方式のポイント還元型市民通貨「B」を導入することになった。
ポイントの還元率は10%で、客がポイントを使用して支払う際も現金の支払いと同様に10%が還元される。
下の例の参加者は客に大江、石原、村上、商店に「蕎麦処泉」(店主は太宰)、「ポー電気」、「夏目書店」(店主は夏目)となる。
市民通貨「B」が始まった2月1日から2月9日までの取引は以下の通りである。

2月1日に大江が「蕎麦処泉」で、狐蕎麦を食べ800円を支払い80Bが還元された。
2月3日に石原が「蕎麦処泉」で、ざる蕎麦を食べ750円を支払い75Bが還元された。
2月3日に村上が「ポー電気」で、ストーブを買い15,000円を支払い1,500Bが還元された。
2月4日に村上が「夏目書店」で、1200円の小説を買いポイントの1200Bで全額支払い120Bが還元された。
2月5日に石原が「蕎麦処泉」で、1,000円の天蕎麦を食べ現金925円とポイントの75Bで支払い100Bが還元された。
2月5日に大江が「夏目書店」で、300円の週刊誌を買い現金220円とポイントの80Bで支払い30B還元された。
2月6日に「夏目書店」の夏目が「蕎麦処泉」で、800円の狐蕎麦を食べポイントの800Bで全額支払い80Bが還元された。
2月7日に「蕎麦処泉」の太宰が「ポー電気」で、500円の電球を買いポイントの500Bで全額支払い50Bが還元された。
2月9日に石原が「夏目書店」で、新書を買い400円を支払い40Bが還元された。

以上の取引をLETSの仕分帳形式の取引記録としてまとめると以下のようになる(分かり易くするために色分けした)。ポイントで支払う場合は、支払いポイント(B)と還元ポイント(B)の二つを記録する。


ポイント還元型市民通貨B 取引記録 (2月1日から2月9日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 B 投方額 B
02/01 狐蕎麦 大江 蕎麦処泉 80 80
02/03 ざる蕎麦 石原 蕎麦処泉 75 75
02/03 ストーブ 村上 ポー電気 1,500 1,500
02/04 小説 夏目書店 村上 1,200 1,200
02/04 小説 村上 夏目書店 120 120
02/05 天蕎麦 蕎麦処泉 石原 75 75
02/05 天蕎麦 石原 蕎麦処泉 100 100
02/05 週刊誌 夏目書店 大江 80 80
02/05 週刊誌 大江 夏目書店 30 30
02/06 狐蕎麦 蕎麦処泉 夏目書店 800 800
02/06 狐蕎麦 夏目書店 蕎麦処泉 80 80
02/07 電球 ポー電気 蕎麦処泉 500 500
02/07 電球 蕎麦処泉 ポー電気 50 50
02/09 新書 石原 夏目書店 40 40
上の全体記録から総勘定元帳を作る要領で客個人別、商店別の取引記録を作成する。ただし、客個人の取引記録はプライバシー保護の観点から本人以外には公表しない方が良いだろう。

大江 (2月1日から2月9日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 B 投方額 B
02/01 狐蕎麦 大江 蕎麦処泉 80  
02/05 週刊誌 夏目書店 大江   80
02/05 週刊誌 大江 夏目書店 30  

石原 (2月1日から2月9日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 B 投方額 B
02/03 ざる蕎麦 石原 蕎麦処泉 75  
02/05 天蕎麦 蕎麦処泉 石原   75
02/05 天蕎麦 石原 蕎麦処泉 100  
02/09 新書 石原 夏目書店 40  

村上 (2月1日から2月9日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 B 投方額 B
02/03 ストーブ 村上 ポー電気 1,500  
02/04 小説 夏目書店 村上   1,200
02/04 小説 村上 夏目書店 120  

蕎麦処泉 (2月1日から2月9日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 B 投方額 B
02/01 狐蕎麦 大江 蕎麦処泉   80
02/03 ざる蕎麦 石原 蕎麦処泉   75
02/05 天蕎麦 蕎麦処泉 石原 75  
02/05 天蕎麦 石原 蕎麦処泉   100
02/06 狐蕎麦 蕎麦処泉 夏目書店 800  
02/06 狐蕎麦 夏目書店 蕎麦処泉   80
02/07 電球 ポー電気 蕎麦処泉   500
02/07 電球 蕎麦処泉 ポー電気 50  

ポー電気 (2月1日から2月9日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 B 投方額 B
02/03 ストーブ 村上 ポー電気   1,500
02/07 電球 ポー電気 蕎麦処泉 500  
02/07 電球 蕎麦処泉 ポー電気   50

夏目書店 (2月1日から2月9日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 B 投方額 B
02/04 小説 夏目書店 村上 1,200  
02/04 小説 村上 夏目書店   120
02/05 週刊誌 夏目書店 大江 80  
02/05 週刊誌 大江 夏目書店   30
02/06 狐蕎麦 蕎麦処泉 夏目書店   800
02/06 狐蕎麦 夏目書店 蕎麦処泉 80  
02/09 新書 石原 夏目書店   40
最後に合計残高試算表を作る要領で残高一覧表を作る。受方−投方=残高がプラスになった客と商店は「受方」に、マイナスになった商店は「投方」に記載する。また実際の場合、客は個別ではなく全員の合計を公表した方が良いだろう。

ポイント還元型市民通貨B 投資残高一覧表 (2月9日現在)
受方 受方 参加者 投方 投方
残高(B) 合計(B)   合計(B) 残高(B)
30 110 大江 80  
140 215 石原 75  
420 1,620 村上 1,200  
90 925 蕎麦処泉 835  
  500 ポー電気 1,550 1,050
370 1,360 夏目書店 990  
1,050 4,730 合計 4,730 1,050
上の表から、大江は30B、石原は140B、村上は420Bのポイントを保有していることが分かるが、これは現時点で商店街にその分だけ投資しているということを意味する(客はマイナスのポイントを持つことができないので常にゼロか投資状態にある)。また、「蕎麦処泉」と「夏目書店」もそれぞれ90Bと370Bのポイントを保有していて投資状態にあるが、一方で「ポー電気」はマイナス1050ポイントであって、これは商店街から投資されている状態を意味する。

 一般的なLETSの具体例

「借方」「貸方」から「受方」「投方」へ

LETSにおいては簿記の各勘定科目を参加者の名前に変えるだけで、原理的には複式簿記と全く変わらない。ただしLETSではモノやサービスの投資概念を基礎としているため、複式簿記における「借方」「貸方」という名称を以下のように変更する。
複式簿記における「借方」とは「お金を受け取る方」であり、「貸方」とは「お金を支払う方」であったが、これをLETS的にCommunityを主体に考えれば、お金を受け取ることはCommunityが受け取る側にお金を借りることであり、お金を払うことはCommunityが支払う側にお金を貸すことと考えられる。
そこで、全ての個人間の取引はCommunityへの投資-被投資と考える場合、「モノやサービスをCommunityに投資してお金(市民通貨)を受け取る方」をCommunityが(その人から)モノやサービスを投資されるという意味で「Communityが投資を受ける方」=「受方」、「モノやサービスをCommunityから投資されてお金(市民通貨)を支払う方」をCommunityが(その人に)モノやサービスを投資するという意味で「Communityが投資をする方」=「投方」と呼びたいと思う。
ここで注意しなければならないのは、どちらが「受方」「投方」かを覚えるときには、市民通貨を受け取るから「受方」であり、支払うから「投方」(市民通貨でよくある「投げ銭」の投げる方が「投方」)と考えてもらっても構わないが、LETS本来の概念としては、投資は市民通貨ではなくモノやサービスによって行われ、投資の「受方」「投方」の主体(主語)はCommunityにあるということである。だからこそ、モノやサービスを投資する方が「受方」になり、モノやサービスを投資される方が「投方」になるのである。
ややこしいが、考え方として大変重要なのでよく理解して欲しい。

運用の具体例

ここでは一般的なLETSの運用を具体例を用いて説明する。
ある地方の小さな村で、村人同士が助け合って生活を支えていくためにLETS方式の市民通貨「K」を導入することにした。参加者は高齢の宇沢、都留。都会からこの村に来た金子、岩井、野口。農業を営むの榊原の6人となる。
市民通貨「K」が始まった2月1日から3月31日までの取引は以下の通りである。

まず、2月1日に宇沢が金子に7000Kで自転車を提供した。
金子はその自転車を使って、500Kで遠出できない都留の買物を2月3日に引き受けた。
さらに金子は宇沢の買物を800Kで2月7日に引き受けた。
2月17日に岩井が都留の家の大掃除を2000Kで引き受けた。
2月19日に野口が榊原の農作業の手伝いを800Kで引き受けた。
2月24日に岩井が宇沢の家の修理を4000Kで引き受けた。
3月5日に榊原が岩井に700Kで榊原の畑で採れたイモを提供した。
3月16日に金子が宇沢の買物を800Kで引き受けた。
3月31日に榊原が野口に600Kで榊原の畑で採れたトマトを提供した。

以上の取引をLETSの仕分帳形式の取引記録としてまとめると以下のようになる(分かり易くするために色分けした)。


市民通貨K 取引記録 (2月1日から3月31日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 K 投方額 K
02/01 自転車 宇沢 金子 7,000 7,000
02/03 買物代行 金子 都留 500 500
02/07 買物代行 金子 宇沢 800 800
02/17 大掃除 岩井 都留 2,000 2,000
02/19 農作業 野口 榊原 800 800
02/24 家の修繕 岩井 宇沢 4,000 4,000
03/05 イモ 榊原 岩井 700 700
03/16 買物代行 金子 宇沢 800 800
03/31 トマト 榊原 野口 600 600
上の全体記録から総勘定元帳を作る要領で個人別の取引記録を作成する。

宇沢 (2月1日から3月31日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 K 投方額 K
02/01 自転車 宇沢 金子 7,000  
02/07 買物代行 金子 宇沢   800
02/24 家の修繕 岩井 宇沢   4,000
03/16 買物代行 金子 宇沢   800

都留 (2月1日から3月31日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 K 投方額 K
02/03 買物代行 金子 都留   500
02/17 大掃除 岩井 都留   2,000

金子 (2月1日から3月31日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 K 投方額 K
02/01 自転車 宇沢 金子   7,000
02/03 買物代行 金子 都留 500  
02/07 買物代行 金子 宇沢 800  
03/16 買物代行 金子 宇沢 800  

岩井 (2月1日から3月31日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 K 投方額 K
02/17 大掃除 岩井 都留 2,000  
02/24 家の修繕 岩井 宇沢 4,000  
03/05 イモ 榊原 岩井   700

野口 (2月1日から3月31日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 K 投方額 K
02/19 農作業 野口 榊原 800  
03/31 トマト 榊原 野口   600

榊原 (2月1日から3月31日まで)
日付 取引商品 受方 投方 受方額 K 投方額 K
02/19 農作業 野口 榊原   800
03/05 イモ 榊原 岩井 700  
03/31 トマト 榊原 野口 600  
最後に合計残高試算表を作る要領で残高一覧表を作る。受方−投方=残高がプラスになった人は「受方」に、マイナスになった人は「投方」に記載する。これは、「受方」に残高が記載されている人はその分だけCommunityに投資している(逆に言えばCommunityが投資を受けている)ということを意味し、「投方」に残高が記載されている人はその分だけCommunityに投資されている(逆に言えばCommunityが投資している)ということを意味する。

市民通貨K 投資残高一覧表 (3月31日現在)
受方 受方 参加者 投方 投方
残高(K) 合計(K)   合計(K) 残高(K)
1,400 7,000 宇沢 5,600  
  0 都留 2,500 2,500
  2,100 金子 7,000 4,900
5,300 6,000 岩井 700  
200 800 野口 600  
500 1,300 榊原 800  
7,400 17,200 合計 17,200 7,400
「受方」と「投方」の参加者全員の合計と残高が一致している。これが複式簿記と共通するゼロザム原理である。
以上で、一般的なLETS方式の市民通貨の運用と、複式簿記会計との原理的同一性を理解されたと思う。