阿部和重 『シンセミア』/OUTKAST 『Roses』

先日、本屋行って『文藝』夏号の阿部和重特集を読んだが結構面白かった。
阿部が言うにはシンセミア』はファンクということだが、これは極めて重要なこの小説の本質である。
阿部の86〜88年頃と思われる学生証の写真も掲載されていて、ちょっと遅れたパンクニューウェーブという感じだったのだが、JAPANの『TIN DRUM』にしろ、DAVID BYRNEにしろ、PILにしろ黒いファンクをいかに解釈し作り換えるかというのが、70年代末期から80年代前半の英米ニューウェーブの奥底に横たわっていた大きな音楽的テーマだったと思う。
その一方で、阿部もファンだというPrinceや、ビル・ラズウェルのプロデュースによるBOOTSY COLLINSの『WHAT'S BOOTSY DOIN'?』(88年)のように黒人の側がロック的なものを取り込む場合もあり、ファンクを基軸とするポップミュージックの再構築というのが80年代的なものの重要な要素として見えてくるのだが、ここで考えたいのは、それが80年代後半からクラブミュージックの中でハウスやヒップホップという機械化されたミニマル性に取り込まれていく過程であって、BOOTSYの『WHAT'S BOOTSY DOIN'?』から『Jungle Bass』(90年)への流れなどがそれを象徴している。
圧倒的なパワーを持っていた前作に比べて『Jungle Bass』のつまらなさは私としては当時結構ショックだったのだが、ハウスやヒップホップへの移行はそのミニマル性において本来のファンクへの回帰ともいえる。しかし、Rolandリズムマシンに代表されるようなエレクトロニクスによるビートはかつての肉体性を否定するものであり、それをどのように回復させるかという問題から、生のドラムフレーズをサンプリングして加工するドラムンベースのような音楽が生まれてきたと言えるのではないだろうか?
そして、90年代の後半あたりから以上のようなクラブミュージックの流れを取り込んだ上で、かつてのニューウェーブのようにファンクをベースに雑多なジャンルを内包した音楽がポップミュージックからいくつか出てきたが、現在その代表と言えるのがOUTKASTだと思う。
そのOUTKASTの『Roses』のPVを見たのだが、学園祭のようなステージで女達が見ている中、歌詞に合わせて車が衝突したり突然UFOが現れるような寸劇がアンドレ達によって上演され、途中からビッグ・ボイ達が乱入し大乱闘になる大騒ぎをしつつも何の内容も無い、というファンクの神髄を描いた素晴らしい作品だった。そして見た直後に、阿部の『シンセミア』を想起せずにはいられなかった。
シンセミア』のよく練り込まれてはいるが基本的には火曜サスペンス劇場のような既視感溢れる物語に乗って展開される、阿部もかつて見たというP-FUNKのステージを彷彿させる多数の登場人物の反復的な馬鹿騒ぎの数々。それがファンクの本質的背景であるアメリカ的田舎と対極にあるような、山形の田舎町のスタイル*1で繰り広げられ、しかもそのスタイルがアメリカの占領によってもたらされたという歴史が物語の深層に横たわっている。物語の中心的存在であるパン屋がまさにその象徴である。
これにより『シンセミア』は、ファンクでありながら、かつての村上春樹のように無批判にアメリカのイメージに頼るような事態を回避することに成功しており、また村上龍のようにアメリカの占領を多大に意識することでナショナリスティックに戦後の日本を否定するような事態にも陥っていない。
ここで重要なのは「ファンクでありながら*2という点であり、戦後アメリカに占領された東北の田舎町という舞台をリズムトラックに据えることにより米米クラブ的なジャポニズムでは全くない、今ここにある土着性としてのファンクを描くことに完全に成功している。
阿部は90年代には「J文学」などと言われる「新感覚」な作家の一人として分類されていたが、大半の「J文学」は浅田彰http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice0003.htmlで論じているように、J-POPと同様、「文化のレヴェルで自閉しようとする」つまらないものにすぎなかった。
しかし浅田は全く分かっていないのだが、90年代の終わり頃からヒップホップ以降のR&Bを取り入れる形でJ-POPが変容し始め、その中から宇多田ヒカルのようにアメリカ的なものと日本的なものが奇妙に融合したようなアーティストが出てきたわけで、阿部和重はそのような状況に唯一対応している小説家と言ってよいだろう。
シンセミア』がまさにその証明であり、この小説こそが最上の意味でのJ文学なのだ。

*1:物語の舞台である山形県神町は阿部の出身地なわけだが、さすがに山形独特のユーモアやいい加減さをリアルに描いている。私は山形出身の親戚が多いのでよく分かる。

*2:「ファンク」を「ポップの一形態」と考えれば、より普遍性のある問題であることが分かるはずだ。