GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE 『岡崎乾二郎の新作絵画展』

柄谷行人 『Transcritique』

道徳的領域はそれ自体で存在するのではない。われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るだろう。そのときにのみ、認識の「対象」が存在する。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、芸術的対象が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧にいれられることを「命じられる」のだ。

形態的領域ははそれ自体で存在するのではない。われわれは絵画を判断するとき、材質的(絵の具かキャンバスか)、形態的(○か△か)、そして、色彩的(青か赤か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、見る者は、形態的あるいは色彩的判断を括弧に入れてキャンバスの絵の具を見るということがありうるのだろうか。そのときにのみ、材質の「対象」が存在するということが可能なのであろうか。
色彩的判断においては、絵の具がアクリルであるとか描かれた形が何かに似ているとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、色が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧にいれられることを絵画に「命じられる」のだ。しかし、そのような絵画がありうるのだろうか。
もちろん、ありうる。というか、全ての絵画がそのような命令を発している。しかし、見る者がその命令に従うことは極めて難しい。人を困難な命令に従わせるにはどうすれば良いのか。

岡崎乾二郎の新作絵画展

四谷で行われている岡崎乾二郎の新作絵画展においては、二枚の絵が隣接して並べられたセットが三組展示されていた。二枚一組の絵は一見しただけでは相互に何の関係もなくランダムにアクリル絵の具が置かれているように見える。ところが、ある程度の距離からしばらく眺めていると、アクションペインティング風に叩き付けられたアクリル絵の具のストロークのいくつかが二枚の絵で全く同じ位置に同じ形態で存在していることに気付かされる。
このように正確な同一性を有する二幅の絵画の制作方法を推測すると、まず最初に絵全体を構成するパズルのような型枠が作られ、その上から筆の勢いや角度等も意識的に同じにして描かれていると思われる。実際に型枠が使われているのかは私には分からないが、少なくとも作家の意識においては型枠が存在していることは間違いないだろう。
そして、型枠の使用は二幅の絵画に次のような複雑な特徴をもたらす。まず第一に、同一の場所に同一の形態で色だけが異なるアクリルのストロークの出現
第二に、型を切り抜いた型枠が使用されるだけでなく切り抜かれた型も使用されることにより、一方には型の形態で塗られたアクリルの部分が現れ、もう一方には型の形態でその周囲だけが塗られたキャンバスの部分が同じ位置に現れることになる。つまり、同一の場所に同一の形態でアクリルとキャンバスという材質の異なる部分が出現するのだが、このとき基底材であるキャンバスが一方に露出することで二幅における色彩の対比は無効となる。
第三に、切り抜いた型枠と切り抜かれた型が組み合わされることにより、同一の材質と色で形態だけが全体として異なるキャンバス部分の出現。
同じ型を使用した2枚の絵を並べるという岡崎の仕掛けた単純な原理は、以上のような原理的効果により、この絵を見る全ての者に、形態的判断、材質的判断、色彩的判断のうちの2つを、2枚の同一性によって停止もしくは無効化させることを命令し、残された差異によって色彩のみ、材質のみ、形態のみを見ることを絶えず強いる。したがって、この絵を見る者は、色彩、材質、形態のいずれか一つだけが存在することから逃れられないことになる。
しかし、この原理に基づいてさえいればどのような絵画であっても見る者は、形態的、材質的、色彩的それぞれの判断の停止もしくは無効化、つまりは括弧入れを命令されるということではない。なぜならば、岡崎乾二郎のこの絵画の基底に原理があるのではなく、この絵画そのものが原理だからだ。
それはこの絵が、絵を見た者に対し、認識的判断と道徳的判断を括弧に閉じこめたことを永遠に忘れさせてしまう力を持っているということである。
m&m'sのチョコレートのように色付けされたプラスティックが塗りつけられた布の壁。
これは「オモチャのようなアート」なのか?
断じて違う。
これは村上隆の作品ではない。
ただのオモチャ。
それが岡崎乾二郎の作ったものだ。