嶽本野ばら(原作) 中島哲也(監督・脚本) 『下妻物語』

この映画はあらゆる意味で面白かったが、単純に笑えて楽しめるという点だけをとっても庵野秀明の『キューティーハニー』など全く比較にならないくらい良くできている。どんなにバカバカしい作品でも作り手が真剣になっていなければ見る側は楽しめないが、『キューティーハニー』の場合、「娯楽映画なんてこんなもの」という監督の意識が透けて見えてしまう。これでは面白い作品など作れるわけがないのだ。
下妻物語』の監督の中島哲也はCMをやっていた監督だけあって、クリアな映像がこの映画に合っている。一方で、CM的なギャグの演出は少しやり過ぎの感もあるが、テンポ良く流れているので全体からすると気にならない。
役者としては、ヤンキーのイチゴ役の土屋アンナが素晴らしく、良く通る声が映画全体を引き締めるぐらいの役割を果たしていた。また、イチゴが尾崎豊のファンという設定で歌も歌うのだが、尾崎へのトリビュートとしてこれほど相応しい作品はないと思う。主演の桃子役の深田恭子も良かったが、やはり二人の組み合わせがこの映画を魅力的な作品にしている。
だが、『下妻物語』は単なる優れた娯楽作品ではない。嶽本野ばらの原作を読めば分かるのだが、実は思想的な枠組みがしっかりと組まれている作品であって、映画においてもそれが映像として生かされている。
その「思想的な枠組み」とは、一言で言えばアナーキズムである。
嶽本野ばらは、乙女的なものやロリータファッションへの深い傾倒で有名な作家だが、初期のVivienne Westwoodを考えれば分かるように、ロリータ的なものの源流にはセックス・ピストルズの、というよりもマルコム・マクラーレンアナーキズムが存在していた。したがって、自らをマルコムに重ねているようにも見える嶽本が、アナーキズムを小説の思想的背景に置いたとしても不思議ではない。
実際に、『下妻物語』の原作においては桃子が明確に「私はロココ主義だから。ロココは真のアナーキーなのよ」と宣言している。しかし重要なことは、この作品が全体を通してアナーキズムの本質を明らかにしているという点にある。
アナーキズムの本質を述べることは難しい。無政府主義と訳されるこの思想は、確かに政府すなわち国家(ステート)を否定するのであるが、この否定が直ちにアナーキズムに直結するわけではなく、次のいずれかの方向にいくことが多い。ナショナリズム資本主義である。前者は国家主義と訳されるが中央政府により組織化された国家ではない血と大地で結ばれた運命共同体としての国家であり、後者は国家に束縛されない経済運動を目指す自由主義である。したがってアナーキズムを描く際には、この二つと国家(ステート)がどのような関係にあるのかを示すことが鍵になる。『下妻物語』で注目すべき点もまさにそこにあるのだ。
まず資本主義についてだが、物語の前半で、桃子の父親が作るベルサーチの偽物をブランドのロゴさえ入っていればそれが本物であるかはどうでもいいとばかりに喜々として欲しがる尼崎の人々やヤンキーのイチゴ、すなわち国家(政府)が本物と保証する資本の価値を認めない人々を描くことによって、ファッションブランドに代表されるグローバルな資本主義経済が国家(政府)の保護のもとに成り立っていることを逆説的に示している(父親はブランドの偽造により逮捕されそうになり桃子と下妻へ逃亡することになる)。この描写は映画でも非常に上手く再現されている。
そして、資本主義が下妻のような郊外の生活全般に支配的影響を及ぼす象徴としてジャスコの存在が大きくクローズアップされるのだが、重要なのはグローバル経済がもたらした商品で満たされたジャスコを「何でもある」と自慢げに語るイチゴと、代官山の小さなロリータ系ブランドショップを崇拝し自らの手作業による刺繍で自分の欲しいものを作る桃子との対比であり、やがては桃子の刺繍した特攻服に感激するイチゴの描写を通して、規格化された商品のみが供給される資本主義では満たされない人間を描くことに成功している。
次に、ナショナリズムについてだが、これはクライマックスの対決シーンに凝縮されていると言ってよい。茨城のレディース(女性の暴走族)を組織化して統一するというチームのリーダーに対し、今まで通り小さなチームで自由に走っているだけでいいじゃないかと主張するイチゴは、まさに国家(ステート)に組織化されることを拒むナショナリストに他ならない。通常、近代国家においてはそれをネーション−ステートと呼ぶように、ネーションとステートは一体となったものなのだがステートが誕生または崩壊する際においてはネーションと対立するのである。
しかし、イチゴのナショナリズムは、「ダチになることを拒否してた」桃子について語り出したとたん、「人は最後は一人なんだよ」とイチゴ自ら否定してしまう。そして、チームを抜けることを宣言したイチゴは他の暴走族全員と対決することになるのだが、そこに桃子が助けに入る。イチゴのために血で汚れた顔と大地の泥で汚れた服で戦う桃子の姿は、二人の共同体的関係を一瞬思わせるのだが、ラストの桃子の言葉で共同体の根拠となるべき関係が否定されてしまう。

イチゴ、大好きなイチゴ、私も貴方から一杯、いろんなものを貸して貰ったよ。でも返さないよ。一欠片も。

共同体の贈与とお返しの交換関係は、ヤンキーの立場からそれを求めるイチゴに対し、桃子が常に拒否してきた他者との関係であり、原作においては親へのお返しも否定されている。
イチゴと桃子のように贈与とお返しの交換関係を一切拒否してもなお結ばれる関係こそが、資本主義にもナショナリズムにも陥らないアナーキズムの本質であり、これを主人公の強力なメッセージにしたことで、嶽本野ばらは『下妻物語』を高度な政治文学としても読める作品にしたと言ってよいだろう。