『現代思想』 柄谷行人インタビュー

上部構造というかわりに、いろんな言い方がありますね。「共同幻想」とか「想像の共同体」とか「表象」とか。一般に、上部構造を重視する人たちはかつての経済的決定論に反撥したからでしょう。しかし、そういう見方は「経済的下部構造」が何か実体的なものであるかのように考えることです。ところが、資本主義的経済というのは、貨幣と信用からなる世界であって、それ自体宗教的な世界なのです。

現代思想』8月号のインタビューで柄谷は、98年以降の自らの理論的展開の前提を上記のように語り、そこから資本と国家、さらにNAMの運動を経てネーションと宗教の構造的把握について考えるようになったと言う。
ところで、上記の引用に「共同幻想」という言葉が出てくるが、これが吉本隆明の『共同幻想論』を意識していることは言うまでもない。しかし、吉本は「「経済的下部構造」が何か実体的なものであるかのように考え」ていたのだろうか?

そうすると、お前の考えは非常にヘーゲル的ではないかという批判があると思います。しかし僕には前提がある。そういう幻想領域を扱うときには、幻想領域を幻想領域の内部構造として扱う場合には、下部構造、経済的な諸範疇というものは大体しりぞけることができるんだ、そういう前提があるんです。しりぞけるということは、無視するということではないんです。ある程度までしりぞけることができる。しりぞけますと、ある一つの反映とか模写じゃなくて、ある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところまでしりぞけることができるという前提があるんです。

以上の『共同幻想論』の序にある吉本のインタビューを読むと、彼の場合も資本主義的経済における「それ自体宗教的な世界」、すなわち「ある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところ」を把握するために、いったん下部構造をしりぞけ上部構造における「幻想領域」を扱う必要があったのだということが分かる。
つまり、80年代以降の柄谷は吉本に対して常に批判的であるのだが、ネーションや宗教が様々な領域で機能しているのを注意深く見る必要があると語る今の柄谷は、『共同幻想論』を書いた吉本と実は同じ問題を扱っているのではないだろうか?
私は高校生の頃から今にいたるまで柄谷行人の思想的影響を強く受け、今でも彼は偉大であると確信しているが、その一方で柄谷や浅田彰が小馬鹿にしていた吉本隆明については彼らの影響により批判的に考えていた。特に知識人の独善を退け大衆の優位性を強調する吉本の一貫した態度には強い反撥を覚えたものだが、NAMの運動における柄谷本人を含めた知識人のダメさを見てからというもの、吉本の知識人批判にはそれなりの必要性があったのだと思わざるを得ない。このあたりことは全共闘世代には自明のことなのかもしれないが、知識人が行う政治運動のバカバカしさというものをNAMでリアルタイムで見て実感として分かった。
吉本の思想家としてのこのような役割や、上で述べた最近の柄谷との問題把握の共通性を考え合わせると、吉本隆明という人はやはり偉大な思想家であると最近になって思い始めた。
ここでNAMの運動のダメさというのを一つだけ挙げると、『現代思想』のインタビューで柄谷は、マルクス資本論において税金や国家の問題が省かれているのは何故なのかについてこれから考えたいと語っているが、マルクスがどのように考えていようと、国家と資本に構造的に対抗しようとするならば真っ先に取り組まなければならないのが税金の問題のはずである。源泉徴収制度のように国家と資本の結合による歪んだ税制がサラリーマンの政治意識にまで影響を及ぼしている日本においては、税金制度について考えることは極めて重要なはずだ。しかし、そういうことがスッポリ抜け落ちて夢想的な地域通貨とその内部抗争に熱中していたのだから、知識人の勉強会の域を出ることができなかったのは当然なのである。