宇多田ヒカル 『COLORS』

吉本隆明 『共同幻想論

わたしのかんがえでは<巫女>は、共同幻想をじぶんの対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては<性>的な対象なのだ。巫女にとって<性>行為の対象は、共同幻想が凝集された象徴物である。<神>でも<ひと>でも、<狐>とか<犬>のような動物でも、また<仏像>でも、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは、巫女にとって<性>的な対象でありうるのだ。

宇多田ヒカルの歌はラブソングでありながらも、性的な対象が常に世界全体と入れ換わりうる構造を持っている。吉本の『共同幻想論』における巫女論にしたがえば、それは「巫女の歌」ということになるが、今やほとんど不可能になった共同幻想と対幻想の交換を、歌うという行為において可能にしつつ、幻想の外部を露出させたのが『COLORS』である。

『COLORS』の詩の解明

ミラーが映し出す幻を気にしながら いつの間にか速度上げてるのさ
どこへ行ってもいいと言われると 半端な願望には標識も全部灰色だ
炎の揺らめき 今宵も夢を描く あなたの筆先 渇いていませんか

ラカン鏡像段階論によると、幼児は「ミラーが映し出す幻」つまり鏡に写った自分の姿を見ることで、視覚によって自己の統一性を内面的統一の前に先取りする。この先取りは幼児にとって決定的に重要な意味を持ち、やがて鏡に映る自己身体の統一像は他者の知覚像に取って換わる。このとき自己の統一性は他者のものとなり、自分自身を認識することによってもたらされる主体の自由は、「どこへ行ってもいいと言われ」ても「半端な願望」しか持つことが出来ず、自己の欲望としての「標識」は他者の欲望との鏡像関係において「灰色」になる。
このようにして他者に奪われた自己の統一性を取り戻すためには、「夢」としての他者との一体化を目指すしかない。そこで、「炎の揺らめき」に「あなたの筆先」を濡らす、すなわちヴァギナにペニスを結合させる<性>行為が欲望されることになる。

青い空が見えぬなら青い傘広げて いいじゃないか キャンバスは君のもの
白い旗はあきらめた時にだけかざすの 今は真っ赤に誘う闘牛士のように

「自分にとって青く見える空が、どうして他人にも青として認識されるのか?」という問いは、言語と自然とを結ぶ共同幻想の確認のために詩の題材としても度々用いられる。しかし、この曲においては「あなたの筆先」が描く「キャンバスは君のもの」、つまり、あなたの欲望が描かれるキャンバスである私は「君のもの」なのだから、「青い空」が見えなくても、あなたの「青」は私の「青」であって、「青い傘」=「あなたの筆先」を広げればよいという。
すなわち、共同幻想である「青い空」が対幻想としての<性>的な対象である「青い傘」に転換させられることで、自己の統一性を求めることに対する「あきらめ」を拒み、他者との一体化を「真っ赤に誘う闘牛士のように」受け入れる。

カラーも色褪せる蛍光灯の下 白黒のチェスボードの上で君に出会った
僕らは一時 迷いながら寄り添って あれから一月 憶えていますか

しかし、空が共同幻想の対象であるのは今やロマン的な心性に過ぎない。ポスト近代において、空は「カラーも色褪せる蛍光灯」で覆われ、システム化されたマトリックスとしての「白黒のチェスボードの上」でしか君と出会えなくなる。そして、君との出会いと別れは僅か「一月」で忘れ去られるものとなる。

オレンジ色の夕日を隣で見てるだけで よかったのにな 口は災いの元
黒い服は死者に祈る時にだけ着るの わざと真っ赤に残したルージュの痕

このような世界で、「オレンジ色の夕日を隣で見てるだけで よかった」ロマン的な心性も、「災いの元」になる口=言葉によってアイロニーとしてのロマン主義へと転化されてしまい、共同幻想は最早、「黒い服は死者に祈る時にだけ着る」ような形式性にしか残されておらず、「真っ赤に残したルージュの痕」は「わざと」という主体的抵抗においてしかあり得ないことになる

もう自分には夢の無い絵しか描けないと言うなら 塗り潰してよ キャンバスを何度でも
白い旗はあきらめた時にだけかざすの 今の私はあなたの知らない色

共同幻想が消滅しつつある中、「もう自分には夢の無い絵しか描けない」、つまり他者と一体化することで奪われた自己の統一性を取り戻せないのならば、同一の他者へのパラノイアックな囚われの関係から、「キャンパスを何度でも」塗り潰すような入れ替え可能な関係への移行が要請される。
しかしこのとき、あきらめない、すなわち入れ替え可能な関係も共同幻想へと引き戻されることも拒む「今の私」は、単独者としての固有の「あなたの知らない色」になってしまう。

『COLORS』の映像(DVD)の解明

このように歌詞だけを解明すると、この歌は「巫女の歌」というよりもむしろ、近代の中で大きな位置を占めていた共同幻想吉本隆明)あるいは象徴界ラカン)が衰退し、それらが保証していた「私」の固有性が消滅していく中、入れ替え不可能な「実存としての私」を確信する歌と受け止められるのではないだろうか?
ここで宇多田の歌の変遷を考えると、デビュー曲の『Automatic』ではタイトルが示す通り「私」は完全に他者に委ねられるものとなっていたが、『Addicted To You』では他者の存在はたんに「私」の「クセ」が求めるものとなり、『For You』においては「君がくれた歌を口ずさむ」が「誰もなにも君に頼ろうと思ってるわけじゃない」といい、しかし、「誰かのためじゃなく 自分の為にだけ 歌える歌があるなら 私はそんなの覚えたくない」と「私」の実存性を確心しつつ、「私の世界」が全てであるような独我論を否定する。
ここにおいて、宇多田の歌詞における実存主義的な思想性は確立されたと見てよいが、その後もロマン主義的なアイロニーを多分に孕みつつ、同様の思想が継続された。そして、『COLORS』においてはアイロニーの果てに、入れ替え不可能な「実存としての私」の孤独を最終的に確信する歌詞になっているわけだが、それを歌うPVの映像を見てみると全く異なる意味が浮かび上がってくる。
そのポイントは「服」にある。
というのも、PVの本編が始まる前の本人の解説で、今回の作品で着ている服が衣装ではないこと、演じている役ではなく「私」の服であることを強調しているのだが、ここで注目すべきは服の説明をするときに着ている彼女の服が、日の丸という近代日本における共同幻想の象徴を明確に提示しているということである(写真1)。
そして、イメージとしての日の丸は本編においても、近代がシステム化されたことが歌われる場面(カラーも色褪せる〜憶えていますか)で、彼女自身が着た赤い服によって一つのシーンとして提示される(写真2)。この画面と歌詞を対比させれば、共同幻想が消滅していく中、強引にそれを再現させようとする者へのアイロニーを感じさせずにはいられないのであるが、最大のポイントは次に続くシーン、「黒い服は死者に祈る時にだけ着るの」と共同幻想が形式的な場においてしか残されていないことを歌うとき、その歌詞に反するように黒い服を着て歌う場面である(写真3)。
このとき、共同幻想における象徴的なもの一切が歌という行為に転化され、それによって他者との一体化という対幻想もまた、その対象を一つの身体へと還元する。
ロマン主義的なアイロニー実存主義との共犯関係が隠蔽してきた他者が、歌うという行為によって一気に現前するのだ。
これが「巫女の歌」だ。