エヴァンゲリオン/ヱヴァンゲリヲンにおけるキャラクターズ

宮台真司がラジオでエヴァについて語るのを聴いたのだが、旧エヴァの解釈については概ね同意する。つまり旧エヴァの最も基軸となる点は、人類補完計画という共通の目的を持ちつつもその実現方法におけるゼーレとゲンドウの対立であって、ゼーレはユダヤ的、ゲンドウはキリスト的(あるいはナチス的、ワーグナー主義的と言ってもよい)という関係にあるということ。
恐らく宮台は、Yasuaki氏の緻密な謎解きサイトを読んだのだと思うが私もあれを読んで同様に考えた。
しかしながら、内在系とか超越系の話は全く同意できない。
私の考えではテレビ版の25、26話こそが内在系そのもの、つまり普通の社会生活とは人格改造セミナーのようなものであって、社会とか他者に向きあうとか説教じみたことを言うならばテレビ版のラストで必要十分なのである。
だがそこで問題になるのは宮台の言うように内在系の日常だけでは生きていけない人々、つまり超越系というのがいるということ。そして夏エヴァが圧倒的に優れた作品なのは、超越系とは何なのかを徹底的に描いているということにつきる。
そのポイントは三つあって、一つはオウム的な偽の理念としての「超越」。これは巨大化した綾波とその破壊によって完璧に映像化されている。並の映画ならば当時の時代状況を考えてもこれだけで終わりなのだが、この映画の優れた点は等身の綾波を最期に「希望」として描いていること。これは「超越的絶対者」に対して「超越的他者」、あるいは「無限の他者」というべきものであって、ジャック・デリダ的なものでもあり(したがって、デリダリアンが「アスカ〜」などと言っているのは根本的な思想的誤りだ)、カント的な「理念」と言ってもよいものである。
そして三つ目のポイントとして、「超越」が何によって要請されるのかを考える際、主体の精神的変容つまりはサイキックな問題を外すことはできない。これはようするに分裂病者の問題であり、シンジは分裂病を発病してアスカの絞殺に及んだと考えるべきなのである。つまりアスカの「気持ち悪い」はモノ自体と化した分裂病者を前にした『嘔吐』の主人公のごとき言葉であり、したがってこれはサルトル的、というとりもやはりドゥルーズガタリ的な事態の描写なのである。
さらに決定的なのは包帯を巻かれたアスカの最期の姿であって、これが担架で運ばれてきた綾波の姿と奇妙な重なりを描いているのだが、存在を消去されたアスカが、理念、というよりも対象αとしての綾波メビウスの環としての包帯によって意味から存在へとまた存在から意味へと表裏のないループを形成しているのである
こうして考えてみると、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』がヒステリー女の夢分析、つまりはフロイト的な映画であったとすると、旧エヴァジャック・ラカン的映画だと言えるのではないだろうか?すると、今後のヱヴァンゲリヲンに期待するのはラカンに対する批判としてのドゥルーズガタリ的映画ということだろうか。