お前とお前はいきものがかり

もう6月じゃないか!
暑くなる前にコトを片付けておこうと高いテンションで働き続けたはいいが、そのテンションが下がらずいろいろ支障が出てきたので落ち着くためにブログでも書いてみよう、そんないい加減な気持ちでブログに向き合っていていいのだろうか?日本のブログが危機を迎えているこのときに。
そもそも加護敏って誰だ?俺じゃないか。
しかし、敏は良くないな。「赤尾敏」の敏だなどと言っても誰も赤尾敏を知らない可能性すらある。
敏いとうとハッピー&ブルー」の敏だと誤解される恐れもありだ。
 
昔、ハッピーハッピーというバカみたいな名前に改名させられた芸人がいたが、せめてハッピーブルーならば芸に深みが出たのではないだろうか?
笑いとはギャップだ。ハッピーもあればブルーもある。そこに笑いが生まれる。
「3の倍数と3の付く数字だけアホになります」などというそれ自体アホなネタでも、この単純なギャップで大衆は大受けだ。
しかし、俺はアホになるナベアツを最初にテレビで見たとき、もっと大胆にアホになるのかと思いきや、意外におとなしいアホのなり方に少々落胆した。
だが、この御時世に涎でも垂らしてアホを強調すると、その筋のハンディキャップ協会から抗議が来る恐れもあり、あの程度にとどめたのではないかとも思う。
全くつまらない時代になったものだ。
赤尾敏数寄屋橋で「ソ連はスイカです。切れば中身は真っ赤です」などと演説していたころが懐かしい。
 
そう言えば、アニメやマンガの規制問題はどうなったのだろうか?
性的表現を規制すれば次はポリティカル・コレクトネスによる規制がやってくる。
ひぐらしのなく頃に」の四本指を止めたのもやはり一定の配慮があったのではないだろうか?
こういうことは、結構ごまかしながらやっているものだ。
泉こなたが日本口唇口蓋裂協会の追求を免れているのも、現在の絵に対する社会的許容度があってこそだ。
もし、こなたが普通の口になったらどうなる?
らき☆すた』は、ただちに『ちびまる子ちゃん』に堕するのである。
 
ところで、今ペディアを見ると「ハッピーハッピー」は「ハッピハッピー。」が正しいことが判明した。
そして、本名は宮谷信也で、大阪府堺市出身。関西創価高等学校卒業、創価大学中退という経歴までもが分かったのである。創価大学中退とは改宗でもしたのだろうか?
ウィキペディアは何でも教えてくれる。
まあ、しかし、こんな議論はすべて意味がないのです、などと言うのは早計だ。
ヒトラーナショナリズムアウシュビッツ帝国主義。これらのウィキペディア情報で歴史とアクチュアルな問題が繋がるからだ。
すなわち、ナショナリズムにおけるヒトラー決断主義であり、アウシュビッツはそこから始まったが、第三帝国帝国主義ならぬ世界共和主義を目指したとき、決断主義セカイ系に変質し、「ユダヤ人はセカイから出ていけ」というホロコーストが起こされた。
宇野常寛もそういうことを踏まえて論じないと、それこそ世界がセカイの狭さになってしまう。
それにしても、『ゼロ年代の想像力』がラインホールド・ニーバーの「ニーバーの祈り」に始まり、「ニーバーの祈り」で終わるのはどういうことか?
ここで問われるのはニーバーではない。
ゼロ年代が2000年の『Wait & See 〜リスク〜』における「ニーバーの祈り」の引用に始まった、ということである。
否、それは引用ではなかった。
「与えたまえ」ではなく「ちょうだいよ」だった。
宇野もそういうことを踏まえて、もう一回、『涼宮ハルヒの憂鬱』を見ないといかんね。
 
話はだいぶそれたが、加護敏ではなく加護瓶治郎になりました。