オバマ、そしてコムロ。

オバマが第44代の大統領の座を確実にした。
小浜市ではフラダンスなどで盛り上がり、「リメンバー・パールハーバー」を世界に発信している。
初の黒人大統領は何を意味するのか(黒人と言っても5割黒人だが、人は見かけが9割なので黒人と言っていいだろう)。
それはアフリカ系アメリカ人の最終的なアメリカ化であり、それを支えてきたR&Bの終焉である。
 
俺は、オハイオのコンピュータ・ラブ・マシーン、Roger TroutmanZapp)が大好きだ。
彼はプリンスより偉大であり、P-Funkの誰よりも才能があった。そして、地元ではファミリーを中心に黒人のビジネスを支える様々な活動も行っていたようで、その利害関係がもとで兄弟に射殺されたとも言われる。
そのロジャーの曲で俺が最も好きなのは『Jesse Jackson』だ。
最近では「オバマのチンポを切り落としてやりたい」などと言って顰蹙を買っているジェシー・ジャクソンだが、88年に大統領候補を目指したときにロジャーが応援する意味で作った曲だろう。
生声のみで歌われるオハイオ・ファンクの神髄がつまったこの曲に匹敵するオバマのテーマソングは今回の大統領選挙では生まれなかった。
もはやR&B(もちろんヒップ・ホップも含む)は必要がなくなったのだ。
 
ロジャーがYAMAHA DX-100を食べた男なら、KX-5をステージに叩きつけた男が、言わずもがな小室哲哉である。
昨日の逮捕によりメディアでは小室の没落がさかんに伝えられているが、本職である音楽の人気低迷については誤った認識が多い。
あるコメンテーターによると、彼のCDが売れなくなったのは安室奈美恵が休業した10年前の98年からであり、それはいいのだが、その原因がモーニング娘にあるなどというのは時系列を考えても明らかに違う。
小室に引導を渡したのは、MIsiaであり、宇多田ヒカルであり、あるいは倉木麻衣、つまりJ-R&Bだった。
小室はR&Bが書けなかったのだ。
俺の知る限り小室が作った一番酷いユニットは彼がR&B時代に対応するため満を持して結成したTRUE KiSS DESTiNATiONであり、CDは全く聴けるところがなかった。
安室の復帰後の曲は、いい曲が多かったがR&Bを志向しつつも何か別のものであり、2001年に出たDALLAS AUSTINの曲と小室の曲の両A面扱いの『think of me / no more tears』を聴くと、安室がどちらを求めているかは歴然としていて、ここらが小室のプロデューサーとしての終わりだったのだろう。ヤケになってトランスに逃げたりしたあげくサイケデリックな精神を求めていたりしたようだ。
 
俺の中では10年間、安室がその後のトレンドを予感させる『Dreaming I was dreaming』(小室の曲ではない)を残して97年に姿を消してから、ロジャー・トラウトマンのコンピュータ・ラブ精神を21世紀に蘇らせたPerfumeにいたるまで、J-R&Bの隆盛と「小室R&Bできなかった問題」は常に頭に刺さった棘のように存在していた。
それはたんに黒人のポピュラー音楽にとどまるものではなく、個と全体、日本とアメリカ合衆国を表象する何かだった。
 
しかし、今日10年たってR&Bが終わった。
 
これが何を意味するのか分からないが、そもそも最近ではすっかりR&Bというものに興味をなくしていることは確かだ。
近所の民家がピンクに塗り替えられ、インドだかパキスタンだかのカレー屋になり、俺は毎日トルコやエジプトの太鼓を叩いている。
やはり、世界が変わりつつあるのだろう。

 『AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ 』

今日、銀行で待っているとき女性週刊誌というのを読んだが、その中に注目すべき記事が載っていた。
NHKの朝の連続テレビ小説『瞳』に出てくる、主人公の友達役の女優の父親がIT長者みたいな奴でその財力で娘を出演させているというのだ。
俺は以前から、ヒップホップスクールでダンサーを目指す主人公の友達が「初級ダイエットコース」に所属するヒップでもホップでもないどちらかといえば腐女子よりのキャラクターだったことに疑問を抱いていたのだが、そういうカラクリがあったわけだ。
女性週刊誌もときには有益な情報をもたらすものだと関心した次第だ。
 
その後、秋葉原にいき初音ミク人形というのを見て、あれば買ってもよいと思ったが凄い売れ行きらしくなかった。
しかし、初音ミクというのは造形的にそんなに素晴らしいものなのだろうか?
どうもいまひとつよく分からないのだが、エロ同人誌などを見るとその指向性が理解できなくもない。進化したレイプファンタジーというやつだろうか?
しかし、あの長い髪はいろいろするのに邪魔じゃないかという気もする。
 
そして先日ネットで話題となった、ゆっくりTシャツというのを買った。
俺はゆっくりの造形的素晴らしさなら理解できる。
ゆっくりというのは元は何かのゲームに出てくるらしいのだが、頭部しかないのは怨霊的なものであるからのようだ。平将門のようなものだろうか?
呪術的なものであるといってもいいだろう。それが、「ゆっくりしていってね」と言うわけだ。ポスト動物化の今後の社会を考えるキータームである「ゆるい宗教」のシンボルと言ってもいいだろう。
とにかく、あのAAの作者は一つのアートを生み出したのだ。

 
ところで先日、田中ロミオの『AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ 』を読んだ。
これは、宇野常寛が『涼宮ハルヒの憂鬱』に抱いていた妄想を完璧に実現したような小説だ。
したがって、ライトノベルの体裁をとってはいるが実際にはリアリズムに沿った作品だ。というか、もっと徹底的にリアリズムに徹した方がよかったかもしれない。ラストの「タガの外れた大騒ぎ」みたいなものはいらないだろう。
それで面白いかと言えば、「これは最後は宇野的になるの?それとも東浩紀的になるの?」という関心を除くと、よくはできているがあまり面白いものではない。『涼宮ハルヒの憂鬱』のSF的設定がリアリズムそのものを問うのに対し、『AURA』ではリアルに還ることが最終的に自明のこととされているからだ。
しかし、この小説には一点だけ見逃せない重要な点がある。
それは、「おまえはドイトを嘗めている」という主人公のメッセージだ。
物語のキーとなるアクセサリー職人の存在とともに、ドイト的なものに現代の迷宮を見いだすという思想は、ウィリアム・モリス的な工芸による生活と芸術の一致に、ただの妄想戦士とは別のやり方で現実を超えるものをつくるという具体的な現実への対抗である。
最後のセリフにある「”普通”のやり方」が、このアーツ・アンド・クラフツ運動的な方法であると読むとき、この小説はただの私小説的自意識を巡る物語とは別の次元に到達することになる。
 

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫 た 1-4)
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 『崖の上のポニョ』

今日、池袋で『崖の上のポニョ』を見た。
面白かったけど、宮崎駿の最高傑作と言われるとどうかな。
やはり、最高は『千と千尋の神隠し』のじゃないだろうか?
ただ、意外だったのは手書きのアニメーションに原点回帰だとか言って、もっと落ち着いた作風になるのかと思いきや、いつものように一切の手加減なく映像も音楽もガンガンやりまくって、光と音の洪水を浴びせていたところだ。
宮崎は子供のために作品を作っているなどとよく言うが、あれは本当に子供のためなのだろうか?
もちろん大人には、あのアニメーションそのものの過剰さが面白いところなのだが、帰りのエレベーターでは5歳くらいの女の子が「うるさかった。早く帰りたかった」などと言っていた。
 
主題や構成も宮崎駿そのものだった。
通俗的には「自然に還ろう。母なる海、初源の海へ還ろう」などという印象が流通している宮崎だが、実際に作品を見ると全くの逆で、その種の自然回帰主義は宗教的狂信として描かれる一方、水道を捻れば水が出て、ガスコンロを捻れば火が付く近代文明が肯定的に描かれる。これは漫画版ナウシカから『もののけ姫』まで、自然を主題にした宮崎の一貫した姿勢だ。
また構成についても、中盤でガンガン盛り上げた後、「やり過ぎた、今は反省している」と言わんばかりに終盤、おとなしくなって妙な終わり方をするというのは、最近の宮崎作品の特徴である。作品全体がもたらすカタルシスを拒否しているのであろうか。
 
宮崎駿の凄いのは、一見時代性を拒否しているように見えても、実際には現在を描く映画を作ってしまうところだ。
もののけ姫』が1997年にしかありえない映画であったように、『崖の上のポニョ』もまたあらゆる意味で2008年の映画であって、これは作品が古典になる条件である。
そして、2008年の映画であるということは、これはまぎれもない萌えアニメだと言うことだ。
実際にああいう魚っぽい女の子を専門に描くアーティストがいて、俺は作品を持っているが彼は本物のそれもんだった。
宮崎も、「俺が本物の萌えというのをこの辺で教えてやろう」という意気込みがあったんじゃないかと思う。
 
崖の上のポニョ』がワーグナーの『指輪』を特に意識して作られたことは、制作ドキュメンタリーでワルキューレを聴きながらポニョの登場シーンを構想していたり、ブリュンヒルデというポニョの元の名前(フジモトブリュンヒルデって何なのか?)や、そのブリュンヒルデポニョが炎ならぬを水を乗り越えたジークフリート宗介との接吻で人間に目覚めるというラストまで『指輪』そのものなのだが、ちょっと気になったのは、井戸のある部屋の扉に印されていた1907の数字で、1907年と言えば、画家を目指していた18歳のヒトラーワーグナーに心酔していた頃であり、このときにのめり込んだセカイ系ワーグナー主義の実現が後にナチスを生んだ彼の内的動機であった。
 
そういうこととポニョが関係あるのかは分からないが、宮崎が単純にワーグナーの現代版をやろうとしているのではないことはあきらかで、ワーグナーに対する批判的な思いもあるのだろうと想像される。
また、この作品をつくるにあたって、「二度と吾朗みたいな子供をつくらないために」とかいう発言もあったようだが、宮崎"ジークフリート"吾朗には、ジークフリートとして、後の世に誰も振り返らない作品を今後もどんどん監督してもらいたい。そして、彼の嫁は要注意人物なのかもしれない。
 


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 お前とお前はいきものがかり

もう6月じゃないか!
暑くなる前にコトを片付けておこうと高いテンションで働き続けたはいいが、そのテンションが下がらずいろいろ支障が出てきたので落ち着くためにブログでも書いてみよう、そんないい加減な気持ちでブログに向き合っていていいのだろうか?日本のブログが危機を迎えているこのときに。
そもそも加護敏って誰だ?俺じゃないか。
しかし、敏は良くないな。「赤尾敏」の敏だなどと言っても誰も赤尾敏を知らない可能性すらある。
敏いとうとハッピー&ブルー」の敏だと誤解される恐れもありだ。
 
昔、ハッピーハッピーというバカみたいな名前に改名させられた芸人がいたが、せめてハッピーブルーならば芸に深みが出たのではないだろうか?
笑いとはギャップだ。ハッピーもあればブルーもある。そこに笑いが生まれる。
「3の倍数と3の付く数字だけアホになります」などというそれ自体アホなネタでも、この単純なギャップで大衆は大受けだ。
しかし、俺はアホになるナベアツを最初にテレビで見たとき、もっと大胆にアホになるのかと思いきや、意外におとなしいアホのなり方に少々落胆した。
だが、この御時世に涎でも垂らしてアホを強調すると、その筋のハンディキャップ協会から抗議が来る恐れもあり、あの程度にとどめたのではないかとも思う。
全くつまらない時代になったものだ。
赤尾敏数寄屋橋で「ソ連はスイカです。切れば中身は真っ赤です」などと演説していたころが懐かしい。
 
そう言えば、アニメやマンガの規制問題はどうなったのだろうか?
性的表現を規制すれば次はポリティカル・コレクトネスによる規制がやってくる。
ひぐらしのなく頃に」の四本指を止めたのもやはり一定の配慮があったのではないだろうか?
こういうことは、結構ごまかしながらやっているものだ。
泉こなたが日本口唇口蓋裂協会の追求を免れているのも、現在の絵に対する社会的許容度があってこそだ。
もし、こなたが普通の口になったらどうなる?
らき☆すた』は、ただちに『ちびまる子ちゃん』に堕するのである。
 
ところで、今ペディアを見ると「ハッピーハッピー」は「ハッピハッピー。」が正しいことが判明した。
そして、本名は宮谷信也で、大阪府堺市出身。関西創価高等学校卒業、創価大学中退という経歴までもが分かったのである。創価大学中退とは改宗でもしたのだろうか?
ウィキペディアは何でも教えてくれる。
まあ、しかし、こんな議論はすべて意味がないのです、などと言うのは早計だ。
ヒトラーナショナリズムアウシュビッツ帝国主義。これらのウィキペディア情報で歴史とアクチュアルな問題が繋がるからだ。
すなわち、ナショナリズムにおけるヒトラー決断主義であり、アウシュビッツはそこから始まったが、第三帝国帝国主義ならぬ世界共和主義を目指したとき、決断主義セカイ系に変質し、「ユダヤ人はセカイから出ていけ」というホロコーストが起こされた。
宇野常寛もそういうことを踏まえて論じないと、それこそ世界がセカイの狭さになってしまう。
それにしても、『ゼロ年代の想像力』がラインホールド・ニーバーの「ニーバーの祈り」に始まり、「ニーバーの祈り」で終わるのはどういうことか?
ここで問われるのはニーバーではない。
ゼロ年代が2000年の『Wait & See 〜リスク〜』における「ニーバーの祈り」の引用に始まった、ということである。
否、それは引用ではなかった。
「与えたまえ」ではなく「ちょうだいよ」だった。
宇野もそういうことを踏まえて、もう一回、『涼宮ハルヒの憂鬱』を見ないといかんね。
 
話はだいぶそれたが、加護敏ではなく加護瓶治郎になりました。

 エヴァンゲリオン/ヱヴァンゲリヲンにおけるキャラクターズ

宮台真司がラジオでエヴァについて語るのを聴いたのだが、旧エヴァの解釈については概ね同意する。つまり旧エヴァの最も基軸となる点は、人類補完計画という共通の目的を持ちつつもその実現方法におけるゼーレとゲンドウの対立であって、ゼーレはユダヤ的、ゲンドウはキリスト的(あるいはナチス的、ワーグナー主義的と言ってもよい)という関係にあるということ。
恐らく宮台は、Yasuaki氏の緻密な謎解きサイトを読んだのだと思うが私もあれを読んで同様に考えた。
しかしながら、内在系とか超越系の話は全く同意できない。
私の考えではテレビ版の25、26話こそが内在系そのもの、つまり普通の社会生活とは人格改造セミナーのようなものであって、社会とか他者に向きあうとか説教じみたことを言うならばテレビ版のラストで必要十分なのである。
だがそこで問題になるのは宮台の言うように内在系の日常だけでは生きていけない人々、つまり超越系というのがいるということ。そして夏エヴァが圧倒的に優れた作品なのは、超越系とは何なのかを徹底的に描いているということにつきる。
そのポイントは三つあって、一つはオウム的な偽の理念としての「超越」。これは巨大化した綾波とその破壊によって完璧に映像化されている。並の映画ならば当時の時代状況を考えてもこれだけで終わりなのだが、この映画の優れた点は等身の綾波を最期に「希望」として描いていること。これは「超越的絶対者」に対して「超越的他者」、あるいは「無限の他者」というべきものであって、ジャック・デリダ的なものでもあり(したがって、デリダリアンが「アスカ〜」などと言っているのは根本的な思想的誤りだ)、カント的な「理念」と言ってもよいものである。
そして三つ目のポイントとして、「超越」が何によって要請されるのかを考える際、主体の精神的変容つまりはサイキックな問題を外すことはできない。これはようするに分裂病者の問題であり、シンジは分裂病を発病してアスカの絞殺に及んだと考えるべきなのである。つまりアスカの「気持ち悪い」はモノ自体と化した分裂病者を前にした『嘔吐』の主人公のごとき言葉であり、したがってこれはサルトル的、というとりもやはりドゥルーズガタリ的な事態の描写なのである。
さらに決定的なのは包帯を巻かれたアスカの最期の姿であって、これが担架で運ばれてきた綾波の姿と奇妙な重なりを描いているのだが、存在を消去されたアスカが、理念、というよりも対象αとしての綾波メビウスの環としての包帯によって意味から存在へとまた存在から意味へと表裏のないループを形成しているのである
こうして考えてみると、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』がヒステリー女の夢分析、つまりはフロイト的な映画であったとすると、旧エヴァジャック・ラカン的映画だと言えるのではないだろうか?すると、今後のヱヴァンゲリヲンに期待するのはラカンに対する批判としてのドゥルーズガタリ的映画ということだろうか。

 蜥蜴少女

宛名はもちろん、K−G−V
とっても素敵な、K−G−V
ところがだ
この事実上、米国の支配下にある世界において
Kは書けるがGが書けない
何ということだ!
しかし、とりたてて騒ぐようなことでもない
小学校4年生がアルファベットを知らないから何だというのか?
 
そんな開き直りは、やがて死を招くだろう
死は全く突然にやってくる
「いいJ-POP」にも、農林水産大臣にも
君にも、私にだって
We got you Baby
Show me show me Baby
 
だが、扇動的ヘアスタイルで愛国主義を標榜するあの数学者の場合は別だ
彼には急いで死を向かわせてやらなくてはならない
奴の小学校における英語教育否定がこのような悲劇を生んだのだ!
 
今宵、愛国主義的数学者の枕元に二匹の蜥蜴がやって来るだろう
コロとエリザベス
彼らが奴の運命だ
前田はな Hana★Sho→

 東浩紀 ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2
「にょ」への想い
それを誰よりも語った男の5年半
しかし、今や「にょ」には沈黙で答える
 
何があったのかにょ?何もなかったのかにょ?
 
リアリズムは寝ているでじこの蒲団を剥がし半透明のネグリジェを露出させる
そうしてゲーム的に語られた現実は
アニメーションという総合芸術を分解芸術へと導くのだ!
このときリヒャルト・ワーグナーフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティの運転する自動車に追い立てられ
バイロイト祝祭劇場でヴァラエティ・ショーが始まる
 
でじこは叫ぶ
「これがフューチャリスト宣言にょ!これがフューチャリスト宣言にょ!」
 
けれども、ドイツ製のオープンカーに乗った男は中央線の街々に火のついた文芸雑誌を投げ込んで訴える
 
「毎度おなじみプレイヤーがやってまいりました」
 
ドイツ製のオープンカーはお茶の水までを焼き尽くしたところで
聖橋の途中で上空から放たれた目からビームで炎上
男は神田川に飛び込み魚と化したポストモダンを泳いでいた